2018年5月22日火曜日

第82回 ジャグラーじゃなかったころ。

僕がジャグリングを始めたのは、中学3年生の時です。
今から12年も前のことです。

そのころの僕、つまりジャグリングを始めたころの僕の映像は、
特に今残っていません。
たぶんどこかにはあるんだけど、すぐ見られるような所にはありません。

唯一、写真だけはある。

芝生で、チェックのシャツを着ていて、嬉しそうに
ボールを投げている写真です。
ジャグリングを初めて1ヶ月ぐらいの頃だったとおもいます。

その時使っていたのは、100円均一で買って来たゴムボールに、
自分で鳥の餌を詰めたものでした。
そのボールを使うまでは、なんだか、テニスボールかなにかを使っていたと思います。
テニス部のボールを校庭からひろって来て、勝手に使っていました。
テニスボールは、あんまりジャグリングがしやすいボールではないので、自分でやりやすいボールを作って練習し始めた時は、とても充実した気分でした。
これで僕はもっと上手くなるぞ、という予感みたいなものがありました。

さて、ジャグリングを習得する以前の僕は、どういう人間だったのでしょうか?

同じ部活の友達が、2つのボールをお手玉したり、棒をバランスを上手にとるのを見て、
「君はそういう芸がうまいんだね」
と言ったのを覚えている。

そのころの、実際的なからだの「感じ」は、今や全然覚えていません。
それはそうと、昨日の自分のからだの感じだって覚えちゃいないんですけどね。

ちょっとだるくて、眠かった、というのだけは覚えている。

第81回 ニルダと話したこと

昨日も、引き続きニルダのワークショップ、通訳でした。
ニルダはやっぱり明るい人でした。
そして、色々と遠慮がちだけど、話も合わせやすい人だった。


ヨーロッパのサーカススクールの話、
ベルギーのフェスティバルの話、
立ち飲み屋でビールを飲みながら、はなしました。
そのフェスティバルについて書いたPONTEはこちら

なんだかうまく言えないのだけれど、
こういう風にアーティストと、人として関わる時間がすごく好きです。
シンガポールに行っても、
台湾に行っても、
やはりいつまでたっても覚えているのは、
一緒にパーティをしたことだったり、出かけたりしたことだったりします。
「すごい人だ」なんて垣根は全然なしに、ただ「ひと対ひと」として
一緒に目を見て笑いあっている時間を、心からうれしいよなあ、と思います。

ニルダもそのことは言っていて、やっぱりそういうのって、いいよね、
と、二人でビールを傾けながらゲラゲラ語っていました。

AAPAのお二人や、公演、ワークショップに関わった方々とも打ち上げで話ができて、とても楽しい時間でした。

2018年5月20日日曜日

第80回 ニルダ・マルティネのワークショップ



 昨日、東京・北千住で、ダンスカンパニー・AAPAが主催の、『となりとのちがい』という公演で、ニルダ・マルティネ(Nilda Martinez)というジャグラーとAAPAのお二人が演じる舞台を観ました。
 ニルダは、フランス生まれの26歳。僕と同い年です。(上写真真ん中)
 今はベルギーに拠点を置いています。
 Le Phare(ル・ファー)というカンパニーで活動をしている。
 ニルダ本人は、「僕はジャグラーじゃないんだけど」と言います。
 しかし道具の捌き方はどう見てもジャグラーです。
 そもそもクラブをよく使うので、「ジャグラー」に見えてしまう。


 会場はBUoY(ブイ)という、廃墟を改造して作られた、わりに大きな会場でした。カフェも併設されていて、落ち着いた雰囲気です。

 公演が終わると、ワークショップの通訳もしました。
 内容は「ものを使った時の、からだの動かし方」です。
 「必然性」というキーワードが付くのが、ポイントです。
 振り付けを作る指針として、「こういう理由があるから、こう動く」という「必然性」が必要だ、ということなのでしょうね。
 
 まずは基本的なからだの動かし方を、床からの高さ(レベル)、とか、直線、曲線、文字をなぞる、と行った形で、具体的に実践しました。
 それから道具を持つ。
 ものの重力に従う、とか、人を追いかける、とか、道具の動きを体で追いかける、とか。
 とにかく常に「目標」を据えて、それをなぞる形で、新しい動きを模索しました。

 ジャグラーとダンサーが入り混じって、道具を持ってスペースを動き回りました。
 ジャグラーにはジャグラーの、ダンサーにはダンサーの、動く質感の傾向みたいなものがありました。
 ジャグラーはやはり道具を扱うのがうまいし、ダンサーは、からだを動かすのがうまいです。そういうことって、目の前で対比されて初めて分かるんだな、と思いました。
 やっぱり明らかに違いました。 
 ニルダはちょうどそのいいとこ取り、という感じで、お互いのジャンルの人にとって、刺激になっていたように思います。

 「人が道具を扱っていると、どうしても道具に意識がいってしまうから、その時に環境にもきちんと意識を向けて、視野をオープンに保っておくのが大切だよ」と彼はにこやかに語っていました。「僕にも難しいんだけどね」と。
 ニルダは謙虚で、感じのいいフランス人でした。

 あんまり本筋とは関係ないけど、ヨーロッパのジャグラーと一緒にいると、ヨーロッパに行きたくなるんだよなぁ。

2018年5月19日土曜日

第79回 WIREDで紹介されるっていうのは、なんだか嬉しいですね

WIREDという雑誌はご存知ですか?
テクノロジーや、「イケてる話題」を取り扱う雑誌です。
日本でも独自の編集版が発行されています。(プリント版は2017年末に休刊となった)

アメリカ版WIREDで、ジャグリングが本格的に紹介されているのを見つけました。
ナンバーズジャグリング(多くの数を扱うジャグリング)についての、わりに詳細なインタビュー映像。
フォーカスされているのは、14個で世界記録を持つアレックス・バロン。
BBBで有名なザック・マカリスターも出てます。



『Why It's Almost Impossible to Juggle 15 balls』(15個のボールをジャグリングすることは「ほぼ不可能である」理由)。
内容自体というより、ジャグリングが、綿密な取材の対象となっているということがとても新鮮に、かつ嬉しく感じられました。
たとえば日本の地上波で、「ジャグラーの〇〇さんです、どうぞ!」「すごいですねえ」「どうやってやってるんですか」みたいな、特に本質的な理解を目指していないどうでもいいコメントがなされて、最後は大御所がボケて、(ジャグラーが「イジられ」て)特にリスペクトの空気を感じることなく終わる、みたいなこととは大違いです。
真剣に科学している姿勢が好ましいし、ジャグラーとしても、十分に興味を持って見られる話題です。

これもあんまり本筋と関係ないのですが、「15個をジャグリングするには、15個を投げるということに特化して、身体をOptimize(最適化)する必要がある」と言っているところがあって、その「最適化」という言葉が、自分にとっての大事なワードであるような気がしました。
そうか、ジャグリングっていうのは、多かれ少なかれ、自分を特定の動作に「最適化」することなんだよな、と。
インプロの難しさもそこにある気がしました。
自分を、決められたことに最適化するのではなく、(ナンバーズジャグリングにおいては、最適解がかなりわかりやすい状態である)「その場の状況に合わせて、面白い行動をとれる」という状態に自分を最適化する、ということなのだなと思う。
最適解をいつでも崩せる、というか。

ジャグリングにもいろんな「最適化」がありそうです。

2018年5月18日金曜日

第78回 多分僕はたなかさんの作品がすごく好きなんでしょう

A Project, Seven Boxes and Movements at the Museum from Koki Tanaka on Vimeo.

このビデオ、国立現代美術館で観たのを覚えています。
この中でやっていることは、ジャグラーにも通ずるものがあると思う。

2018年5月17日木曜日

第77回 そしてまた今日もたなかさんの作品・「コーヒーと旅」


coffee and journey from Koki Tanaka on Vimeo.

またこの人の作品を紹介してしまう。
あまり役に立つようなことを書く場でもないので、何かを紹介して、思うところを述べるくらいでちょうどいいのかも。

さてこの作品ですが、このシンプルさがたまらないですね。
コーヒーを入れるためのものたちを、日本中で買ってくる。
なんだ、バカなことするなあ、と思いますが、同時に実際には僕らはこういうことを平気でやっています。
今僕が使っているパソコンだって、パーツごとに分解したら、世界中からの物質が集まっています。
この一事だけにフォーカスされると(もはやドキュメンタリーですらなく説明だけですが)「各地から持ってきたものを一箇所で使う」ということの質感の一端が浮き彫りになりますね。


第76回 アイデアを売っている

Someone's junk is someone else's treasure. from Koki Tanaka on Vimeo.

Koki Tanakaさんの作品ばかり紹介していますけれども。
でも、随分楽しい作品をいっぱい出してらっしゃいます。
この映像でやっていることも、シンプルでとてもわかりやすく、いいです。
「あたりを歩けば拾える、椰子の枝を売る」

ジャグリング関係ないじゃん、とは思いますが、実践のアートとしては良い手本にだなぁ、と感じます。

本人は「アイデアを売っているんだと気づいた」と言っています。
なるほどね。

2018年5月15日火曜日

第75回 最新のPONTEを発行しました。

PONTE公式のページではお知らせしましたが、編集長個人としてもこちらでお知らせします。 PONTEの最新刊の紙版を発行しました。
(お知らせの記事はこちら

 こちらでも読めます。
どうぞ、おひまの折に。

2018年5月14日月曜日

第74回 サティスファクション・オブ・ジャグリング その3


田中功起による、『犬にオブジェクトを見せる』動画。
前から、「ジャグリングをしているそばで、犬がただ何もせずに見ている演技を見てみたい」
と思っていたんですが、すでに似たような発想がありました。

昨日までのものとは切り口は全然違う動画ですが、
これは、「ちょっと変な物体」も、犬にとっては、そもそもの「常識」から無化されるから、全然変なものに見えなくなっている、というところが面白いんだと思う。
(だが依然人間の目には変なものだから、そこに明確に「認識の差」が見えて面白い)
「ちょっと変な物体」を、「ちょっと変な物体操作」に置き換えると、それはジャグリングの話になります。

2018年5月13日日曜日

第73回 サティスファクション・オブ・ジャグリング、その2

昨日に引き続き、「言われえぬ満足感を与える、物体操作」について考えてみます。
考える補助線として、とりあえずこの動画を見ています。


Wes Pedenの、『Throw Joy』から、ホテルルームの場面です。

この動画が示している一つの「爽快感」(またはギリギリで不快感かもしれない)は、昨日紹介した動画に通ずるものがあると思います。

2018年5月12日土曜日

第72回 サティスファクション・オブ・ジャグリング、みたいな

Object Episodesの、Art that Makes you Think About Juggling (ジャグリングのことを思い起こさせるアート)で紹介されていたビデオです。



すごくいいなぁ、と思います。これって、どこがいいのかなぁ、と考えています。
まだはっきりとした文章にはできそうもないのですが(そして、多分「はっきりとした」文章にはできない方がいいような気もするんですが)、思いついたこと、単語を列挙してみます。

  • 「贅沢」だ
  • 「スカッ」とする訳ではない
  • むしろ「ぎゅっ」とした満足感
  • やや「背徳感」に近い
  • だいたい誰もが一度は見たことのある品物を使っている
  • Fidget Cubeに、少し近いものがありそうだ
  • HowtoBasicには近いが、こちらの方が良いと思う。(品があるから?)
  • 「普段はやらないけど、やろうと思えば自分でもできそうなこと」だ
  • 実際にやったら、ちょっと満足する
  • 社会的な「ちょっとしたタブー」を、許される範囲で逸脱している
この質感をうまく分析できたら、ジャグリングの作品作りにも、きっと活かせると思います。

でも、ジャグラーって、ところで、本当にものを扱うことにおいて、有利な立場にいるんでしょうか。
ジャグリングは、「ジャグリング」という言葉、くくりによって「保護」されてしまっている側面があります。普通だったら何かを投げている、というのは「なんか変」なことであり、社会的には、違和感をもたらすこと、いわば「ライトタブー」です。
たとえば会社で、書類の入ったケースを取引先からビハインド・ザ・バックスローで渡されたら、不適切だと判断するでしょう。(あるいは「面白い会社だ」と思って株があがるかもしれませんがそういうややこしいことは置いておいて)

行動を「ジャグリング」という言葉でくくれる間は、少し過激なこと、「不適切」なことをしても、許されてしまう、ということがあります。

やや難しく一般化すると、「名付け」には、場で受容されうる行動の範囲を、変化させる力があります。「アートだ」と主張すると、体にペンキを塗りたくることが「是」の世界にできます。抹茶だって、普通に飲もうと思えばマグカップに入れて普通に腰に手を当てて飲めますが、「茶の湯」「茶道」の世界になると、それは許されません。

「会社」「社会」という単語にも、多いにそういう力がある。(つまりそれが、許容を促す力にもなりうるし、同化を迫る圧力にもなりうる訳ですね)

もう少しこの動画については考えてみるつもりです。

2018年5月9日水曜日

第69回 フランチェスコ・カスパーニさんのインタビュー邦訳



JugglingMagazine.itを読んでいたら、なんだかインタビューを邦訳したくなったので、手始めに、今年のブリアンツァのフェスティバルに呼ばれていた、フランチェスコ・カスパーニさんのインタビューを載せます。
元記事

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 ジャグリングは、2005年のジャグリングのコンベンションではじめました。
 コンスタントに練習は続けて、各地でちょっとしたパフォーマンスをしつつ、2年後にはサーカス学校に行くことを決めました。様々な理由と、コモ(地名)出身だということもあって、Flic(トリノにあるサーカス学校)に行くことにしました。ITの分野で勉強をしており、舞台関連の経験は全くありませんでした。Flicではゼロから、ダンスや、身体表現、フィジカルシアター、アクロバットの基礎を学びました。

 今は23歳で、(訳者注:このインタビューがなされた年月日は不明)今考えていることは色々とありますが、これからお金を稼いでいくため、コンテンポラリーサーカスのカンパニーを、見つけるなり、作るなりしようと思っています。ジャグリングを取り入れたフィジカルシアターの仕事では、技術を、パーソナリティを表現するための方法として使おうとしていますが、とても難しいです。
 パッシングのデュオもやっていて、その演目は、Flicで個人的に行った、ボールマニピュレーションのリサーチ、複数の物体を使うコンタクトジャグリングと、ストップの動作に関するものを盛り込んだものでした。

 「道具と仲良くなること」について研究をしていて、感情やストーリーを伝えるのは身体との対話であり、それを、リズムの変化や、身体のラインの変化や、空間での動きによって伝えることだ、という風に考えるのが好きです。

 技術の基礎は、ニュートラルな身体を以ってして習得することができます。それから、個々の身体性と向き合い、技術を自分好みに変えていくのです。
 鏡やビデオは使いません。感覚を頼りに進めていきます。なぜなら、鏡は時として人を騙すので、それよりは身体で感じ取った方がいいからです。
 とても重要なのは、取り組んでいるものを、ワーク・イン・プログレスとして人前で見せることです。

 失敗をどういう風に立て直すか、ということについても研究しています。というのは、ジャグラーというのは失敗からは逃れられなくて、ミスをすることを運命付けられているからです。それゆえ、失敗でさえも面白く見せられなければならないし、観客や、それを行っている本人にさえも、気にならないぐらいにして、演技の一部にしてしまう。むしろ、面白い瞬間、ぐらいにしてしまうのがいいのだと思います。


2018/05/09 青木直哉 訳

2018年5月8日火曜日

第68回 ヘンリ・カンガス君



フィンランド生まれの、ヘンリ・カンガス君が新しいビデオを出しました。
ディアボロを手で紐伝いに投げる、という動作をベースにしたトリック集のようなもの。
彼は、そもそもが、普通にディアボロを扱わせても、とてつもなくうまいです。
一昨年フィンランドで会った時話を聞いたら、「小さい頃からディアボロが僕のおもちゃだったからね」とのことでした。

もうディアボロはだいぶどん詰まりじゃないか、とか思ってしまったりもしますが、こういう動画を見ると、なんだ、まだまだ色々ありそうだな、という気になってきますね。

ヘンリ君、今はオランダのサーカス学校Codartsに行ってるんだ。

2018年5月7日月曜日

第67回 SICF(スパイラル・インディペンデント・クリエーターズ・フェスティバル)



ジャグリングユニットピントクルの中西みみずくん率いるチームが、5月4日に東京の青山で公演をしました。
せっかくなので観に行ってきました。

会場は、スパイラルホールという、天井が高くて開放感のある建物です。
入り口を入るとショップがあり、中心にはレストラン。
奥の方には、スパイラル(螺旋)状に緩やかに上って行く階段があります。
階を上がると、これまた、ギャラリーやショップがあります。
いかにも青山、という感じの、小洒落た施設です。

中西くんが披露したのは、「紙幣」と「もの」の交換にジャグリングを見出す演目です。
出演は、山下耕平、好光義也。
ピントクル公式の詳細はこちら

中西くんが率いるピントクルは、日本では珍しい、ジャグリング「を」見せる団体というよりは、ジャグリング「で」何かを見せる団体です。

ヨーロッパなんかではある程度「アートとしてのジャグリング」みたいなものが一定の数上演されています。機会が多ければいい、というものでもないですが、もっとジャグリングの様々な側面を、色々な人に観てもらう機会があれば、面白くなるのかも、などとかんがえていました。

2018年5月6日日曜日

第66回 PONTE最新号入稿


ポーランドに行ったり、ベルギーに行ったり、そうして集めてきた資料と、いろんな経験があります。
これをうまくまとめてみたいんですが、どうも、それは、直接的に共有するような方法ではなくて、少し回りくどい方法で、でも確実に届くようにやらなければならないのかもな、と思っています。

ひとまず、ジャグリング雑誌のPONTEの最新号の入稿が数日前に済んでいます。
今回は、一回、どんどん配ってしまう、というやり方を試してみようと思っています。

理由は様々です。

ひとまず、最新号が出来上がったら、いろんな人に読んでもらいたいな、と、そのことを思っています。

2018年5月5日土曜日

第65回 「ルヴァン」が好きなわたし

「特定の人物の嗜好」はひとつの基準を提供します。
それは、おそらくどんな人であろうと、1人の人の中から必ず「立ち上がってしまう」ものだとも思います。
「この人の嗜好は、基準を提供しない」ということはないだろうと思います。

ただそれが、多くの人に支持され、同じような嗜好を身に付けたいと思われるか、そうでもないか、のどちらかなのだと思います。

人はそれを、「センス」と呼んだりするのでしょう。
あとは、その自分が「これを好きだ」という感覚に、どこまで寄り添っているか、ということが、その人の嗜好の好感度を決める尺度になっているような気がします。

いくら「僕はこれが好きだ」と声高に叫んでも、静かに、「本質的に」自分が好きなものを追いかけている人(対象に耽溺しているひと、というよりは、自分にきちんと対峙している人、かもしれない)にが示す基準には勝てないのだろうな、と思う。
「好みに寄り添う」というのは、自分は何が好きなのか?という問いを超えて、自分がこれを好きなのは何故なのか?ということを捉えようとする運動がもたらす結果だと思うからです。


僕はとりあえず、リッツがすごく好きです。
でもなんか最近のリッツってどうも脂っこいっていうか、味が昔と違うような気がするんだよな。
「ルヴァン」の方が、どちらかというと好みです。

2018年5月4日金曜日

第64回 おじゃみんちゅ

昨日渡邉尚さんの話をしていたと思ったら、なんと、彼が新しい動画を出しました。 その名も、『おじゃみんちゅ』。 

昨年末に、渡邉さんが住んでいる沖縄のお宅を訪ねて、この付近のビーチにも遊びに行きました。
そのおうちから浜が、ほど近かったので、朝7時前に起きて、犬やヤギを見物しながらだらだらと歩いて行って、誰もいない浜で海の静けさを眺めたりしました。
小さなビーチなんですが、水は綺麗だし、よく見ればいきものもたくさんいるし、なかなか幸せな場所でした。 

「おじゃみひょん」というのは、彼のシリーズのタイトルというか、テーマみたいなものです。 一連の作品では、妖怪おじゃみひょんが、京都の民家に出たり、オーストリアの廃工場に出没したり、そしてこうして、友達と沖縄の海をプカプカ泳いでいたりします。
こんな力の抜け具合って本当にいいよな、と思います。
もちろん、いや、逆説的ですが、かなり動画としては力が入っているんだけど、それが、正しい方向に流れて行っている感じがします。目的とかあんまりないんだろうな、と。 ただ画面に映るものを見て、それが美しいな、とか、面白いな、とか、素直に感じ入って、終わり、です。

動画と全然関係ないんですけど、その沖縄の家の近くに、ベビーカーを押している十数体のカカシが忽然と現れる区画があるんですが、その場所を夜中に車で通る時、めちゃくちゃ怖かったです。

2018年5月3日木曜日

第63回 こんなにしょちゅうディアボロのスティック忘れる人っていますかね

またディアボロのスティックを練習に持ってくるのを忘れました。
 リュックにはディアボロだけが入っています。 最近、日々のことをこなすのにカバンを変えることが多くて、どうもいけないです。 

その点、ダンスっていうのは、一番基本的なことは、身体さえあればできるから、いいですね。 ダンスをやる人からしたら、「いや、そんなことない、音楽だって必要だし、これこれこういう道具が必要だし」とか、もろもろのジャンルで、最低限必要なものがあるのかもしれないんですけど、まぁとにかく、何かしらの訓練ができるわけじゃないですか。 

ジャグリングにおいて、道具を忘れると何もできないことが多いです。 

ただ、僕は渡邉尚さんを思い出します。 彼は昔、ルービックキューブにハマっていたそうです。 でも、もし無人島に行ったとして、ルービックキューブ、つまりこの「特定のモノ」がなかったら、できひんやん、というので、それに気がついてからは、「石とか、ヤシの実しかなくてもできるジャグリング」を志向するようになったそうです。 

彼は、「奪われないジャグリング」を目指しているのだ、と言いました。 積み立てた技術の修練が、どんなことをされても無駄にならない、ということだと僕は解釈してます。
 僕なんかは、渡邉さんよりももっとずっと平凡な人間で、まぁ奪われたらその時はその時だ、と思うというか、ある程度道具に縛られてしまうのも仕方ないかなと思っています。というか、悔しながら、奪われないジャグリングを目指すとなると、すごくよく考えて、「飽きた」とか言わないで途方も無いくらいよく研究しないといけないのだろう、と僕には思われるので、そういう根源的な問いかたを一生し続けるだけのバイタリティがちょっとないんじゃないか、とひるんでしまうんですね。 

とりあえずこうやって道具を忘れて、何かできないかな、と考えると、そうか、とりあえず体を鍛えればいいのかな、とか思うので、最近練習している逆立ちとか、ウィンドミルとか、そういうのをやろうと思います。 ジャグリングだと思ってやっているわけではないですが。 でもジャグリングばっかりしていたら、鍛えられない筋肉とか、柔軟性とかあるし、ともするとジャグリングと全然無関係じゃ、ないですよね。

 言い訳っぽいかな。

2018年5月2日水曜日

第62回 カルチャーに音楽がついてくること

最近よくブレイクダンスの動画を観ます。
ブレイクダンス用の曲を集めたものもよく聞いています。練習するときや、歩くときに、気分がほどよく上がって気持ちがいい。

度々思うんですが、ブレイクダンスって、その底に、HIPHOPという文化があって、その上で成り立っている、ということが羨ましいな、と思うことがあります。(浅い理解なのかもしれないですけど)



その下支えになる文化がそれほどない中で、ジャグリングに「合う」音楽ってなんなんだろうな、と思います。
サーカス、もなんか違うんだよな。

2018年5月1日火曜日

第61回 ブリアンツァのジャグリングコンベンション

イタリアのBrianza (ブリアンツァ)というところで、Convention di Giocoleria della Brianza (コンベンション・ディ・ジョコレリーア・デッラ・ブリアンツァ)というフェスティバルが進行中です。


こんな感じ。
Paolo Scannavinoさん(@dottordudy)がシェアした投稿 -

僕自身、2012年に参加したことがあります。
北イタリア、ミラノに近い、ブリアンツァという町で、少々行きづらいところでやっています。
最寄駅に着いたは良いものの、駅からの行き方がわからず困っていたら、別のイタリア人の4人組が助けてくれました。(ミニバスの運ちゃんに交渉して、目的地で降ろしてもらった。)彼らがいなかったら、本当にどうなっていたかわからない。

もう今年で12年目だそうです。

ゲストをみても、ウェスもいるし、アリアネ・アンド・ロクサナもいるし、とにかく今年も、面白い人たちがたくさんいるようです。
別に日本のジャグリングフェスティバルがどうこう言いたいわけじゃ決して(いや、ほんとに)ないんですが、外国で参加するジャグリングのフェスティバルって、高揚感が別次元です。特にヨーロッパのジャグリングフェスティバルは。落ち着く場所がない、というところが、おそらく良いんだと思う。
そもそも、ジャグラーのいい感じの混ざり具合が良かったりもします。
いろんな国籍の、多様なバックグラウンドの人たちが来ている感じ。
上裸でキャンピングカーで来るようなワイルドな人たちもいたりします。

そういえば僕が行った時は、帰り、「ミラノ駅までなら乗せてってやるよ」と言われて、黒い犬と一緒にキャンピングカーに乗せられて、そのワイルドな人たちと話しながら帰ったりしました。

ああいう経験って、あんまり他ではできないです。

2018年4月30日月曜日

第60回 身体に近いスティック

練習にディアボロのスティックを持って行くのを忘れました。
紐だけが、リュックの底に落ちていました。
仕方がないので、紐と手をスティックの代わりにして、ディアボロを操作しました。

Naoya Aokiさん(@jugglernao)がシェアした投稿 -

驚いたことに、というか、あんまり違和感がなかった上に、むしろこれはこれで自然なんじゃないか、という気さえしました。

ヨーヨーの4A(オフストリングス、ヨーヨーが紐から完全に離れる)によく似ていますよね。

(あえて2014年)
4A界のレジェンド、岩倉玲(れい)さんです。
4Aですでに蓄積されているテクニックをしっかり研究したら、もっと面白いだろうな、とも思いました。

そして根本的なこととして、そもそもスティックを使うのってなんでだったんだろう、とか思いました。

一番初めの頃にディアボロをやっていた人は、どんな紐を使っていたんだろう、一体何に紐を結びつけて使っていたんだろう、どういう素材のスティックを使っていたんだろう、ディアボロの「スティック」という概念も、やはり誰かが意図して「開発」したものなのだろうか。
様々な考えが頭に去来して、結構新鮮でした。

身体の延長としてスティックが開発されたとするならば、それをもう一回身体に引き戻したい、という欲も感じました。
時々ディアボロが、スティックを使って操作するものである、ということにフラストレーションを感じることがあります。
だから、ボールなりなんなりをジャグリングして、「整体」したいな、と感じる。
あとは、逆立ちしたりして。たまには思いっきり身体を使いたいんですよね。

もっと身体に近い「スティック」、例えば、紐の先に付いているのがボールだったり、輪っかだったり、もっともっと「太い」スティックだったり、試せることは色々あるんじゃないか、という気がしました。

2018年4月29日日曜日

第59回 気がついたらどこか全然違うところにいる、っていうのはいいですね。

昨日は、鎌倉のゲストハウス、「IZA鎌倉」で、まめさん、Michelさんと一緒に、横濱ハッピーターンとしてパフォーマンスをしました。
IZA鎌倉は、一軒家を改造したような、等身大で落ち着く宿泊施設です。


スペースはそれほど大きくなかったんですが、お客さんもそんなに多くなかったので、ちょうどいい距離感でした。

ところで、パフォーマンスのあとに、自分のパソコンを忘れてきてしまったんですね。
それで今朝、あっ、と気づいて、急いでまた鎌倉まで取りに帰りました。
ゴールデンウィークの始まりで観光客が多く、電車が混んでいました。
晴れているし、徒歩30分くらいならいいか、と思って、よく晴れた海岸線を、爽やかなサーファー達を横目に小走りしてゲストハウスを目指しました。
ゲストハウスに着き、カウンターの中にあった忘れ物をとって、またすぐに駅に引き返して、今は横須賀線に乗って仕事に向かっています。もうすぐ横浜。

ゲストハウスの人に挨拶する暇もなく、電光石火でトンボがえりだったんですが、なんか、この疾走感というか、自分でもあれ、今どこにいるんだろう、と思ってしまうような感じは、なんだかたまんないなー、と感じますね。

自分が驚いている感じがありありとわかります。
気がついたらどこか全然違うところにいる、っていうのはいいですね。

2018年4月28日土曜日

第58回 思い出すことなど

今日、鎌倉でパフォーマンスをすることになっています。
横濱ハッピーターンというグループで出ます。

そのための展示物として、EJCの時の写真をまとめていて、そこで感じていた空気を思い出していました。

もう半年以上も経つんだな、と思うし、また今年も、楽しみだな、とも思うし、自分の中で、ヨーロッパでの経験への距離感がだんだん変わっている、ということも感じます。

2018年4月27日金曜日

第57回 語るか、演るかだ。

自分が好きなジャグリングを見て、「これはこういうところが、こうだからいいよね」と明確に言語化する(しようとする)人と、「なんか、いいよね」という人がいます。中には、敢えて語らない人もいます。

それらは、少なくとも外に出てくるものが何であろうと、よい、と思っている程度は同じなんだろうな、とふと思いました。
ただその思ったことを、どのように運動で外に出力するのか、というところに差異があるのだ、と。



茂木さんの講演を折に触れて聞くんですが、(私は高校の頃から茂木さんに勝手に私淑しているので、いろいろと影響を受けています)ここで、まさにこのところ関心を持っていたことをそのまんま言い当てられていました。

『種の起源』のダーウィンのひ孫、ホラス・バーローさんが、論文が書けない、何を書いたらいいかわからない、という人に対して "Why doesn't he write it and find out?" (書いて見つければいいんじゃないの?) と言った、という話から始まります。( 3:30くらい )

「行動をとることによって、自分が何を考えているかがわかる」
ということ。
「人間の脳には面白い性質があって、自分自身との対話が、外を一度経由しないと完結しない」(6:25あたり)
という、もうこれが全てを説明していますね。
逆にいうと、行動をとるまで、自分が何を考えているかわからないんだ、と。

そして「感覚学習と運動学習のループを回す」ということについて語っています。
感覚で、受動的に蓄積した情報と、逆に発信ができる能力が一番釣り合いが取れているのは、言語だ、と言います。
ははあ、と思いました。

自分の身に降ってきた例えば、「ジャグリングをしている時の環境音がいいんだよね」という感想を、言葉にすることと、それをモチーフにしてジャグリングをすることは、同じことなんだな、と合点が行きます。
ジャグリングをする方は、おそらくもっと、感覚で学んだことに近くなります。

「言葉にはできないよさ」というのは、自分が感じられる、処理できる質の情報が、一度に多量に訪れてオーバーフローを起こすことかもしれない、と思いました。
感覚では、受容することができる質が、運動で外にすぐ出力できない、その高揚感のような気がします。

ちなみにあんまり関係ないんですが、昨日、『グレイテスト・ショーマン』をやっと観ました。

2018年4月26日木曜日

第56回 リングの歴史を少し

https://www.juggle.org/juggling-rings-their-history-development-and-innovation-part-1/
ジャグリングのリングの歴史について上記の記事を読んでいました。
アメリカのジャグリング道具歴史家、デイヴィッド・ケインさんによる記事です。

彼によれば、リングがジャグラーの間で広く使われ始めたのが
1930年代だ、というところです。

輪っかを投げるという発想って、
すぐに生まれそうなものですけど、案外そうでもなかったんですね。

今あるジャグリングの形、ジャグリング「道具の形」のスタンダードが
どれぐらいの歴史を持っているのか、もっと詳しく知りたくなりました。

とりあえず、Web上と書籍で見つかるリソースで、
少しずつ調べて、書いていこうかと思います。

2018年4月25日水曜日

第55回 「書ける」とはどういう状態なのか、「ジャグリングできる」とはどういう状態なのか

ものを書くときに、パソコンなり紙なりに向かったとき、
初めて書くことが生まれる、というようなことを昨日書きました。

「ものが書ける」とはどういう状態なのか、について考えます。
なので、まず「ものが『書けない』」という状態について考えてみます。

「書けなくて困る」ということがよくあります。
そのとき僕に起こっている事とは何か。
それは「行為としての書くこと」ができないのではなく、
「書き出せない」
ということであるような気がします。

「書き出せない」のはなぜか。
それは、「面白いことを書こう」という思惑があるからです。
まず面白いことを(あるいは面白いであろうことを)思いついてから、
それをトレースするように、文字に起こしていこう、
端的に言って、そういう考えがあるからです。

でも実際には、少なくとも行為としての「書く」
を実行することに、物理的な障壁はほとんどありません。
「よし、書こう」と思ったら、
思惑が邪魔をするより先に書き始めてしまえば
いとも簡単に書き出すことができます。

そこに何か問題があるか。
あるとすれば、書いた結果が全然面白くない、とか
全く論理を欠いている、とか読みづらい、とか
そういうことが起こる可能性はあるかもしれません。

実際には、よく考えて書いたことが必ずしも面白い訳ではないし、
「考える前」に、前のめりで書いた文章が
毎回支離滅裂のつまらない文になる訳でもありません。

だから、「書く」のは、それほど深く考えずに
いきなり始めてしまう方がいいのかもしれない。

会話のことを考えてみればこれはよくわかります。
人と会話をするとき、推敲はできません。
あらかじめ紙に書いた内容だってありませんから、
常に即興で話すしかない訳です。
思念が形を取るまでのスパンが短い、とも言えます。
会話は、より「反射」的である、と言えます。
なぜなら、そこに考える余地がないというか、
むしろ「考えるよりも先に」脳が筋肉を動かし、
声帯を震わせ、それが音波となって出てくる、
そのプロセスを、全て自分ではコントロールできないような気がするからです。
(またしても、自意識なんてない、という問題になってくる)

「書ける」ということは、どう言う状態なのか、
外国語を話す、ということに照らし合わせて考えると、
また少しはっきりするような気もします。
ちょうど今僕はフランス語の学習アプリで、
スキットを聴きながらこれを書いているので、
それで考えてみます。

僕はフランス語が話せません。
それは、今までに蓄積してきた言語体系の量が少なすぎるからです。

日本語で僕が話をするとき、
つまり考えに先立って何かを言う時、
それは今まで聞いたことのある言い方を、
その場で有効に組み合わせて発している、としか思えません。
創造性とは記憶のことだ、とは言いますが、
それに近い。

「今、この場」で何かを発信すること全ては、
今まで自分が受容してきたものの記憶のデータベースから
断片を組み合わせて外に出しているはずです。

フランス語では、
僕の中で、まだ有効に組み合わせられるほどのかさの
言葉の蓄積がないので、そもそもそれを話すことが「不可能」です。
「ものが書けない」と言うときの「書けない」とは実行不能性の意味が違います。
つまり、「まだフランス語で意味がある、面白いことが言えない」のではなく、
まだ実のなっていないみかんの樹からは、
いいみかんも悪いみかんも採ることができないように、
そもそも実が全然なっていないから、何も取り出せない訳です。

それをふまえて、「ジャグリングができる」とはどういうことか考えてみます。
と言うより、よりスペシフィックに「やることを思いつかない」と言う状態を考えたいです。
(まぁ、なぜなら、しょっちゅう起こるからなんですが)

と思ったんですが、なんだかどうも、この先がわかりません。
前のめりで書くと、こういうことが起こるんですね。

2018年4月24日火曜日

第54回 ディアボロを持つと練習が始まる

昨日も外でディアボロの練習をしました。
天気は悪かった。

Naoya Aokiさん(@jugglernao)がシェアした投稿 -
ディアボロを持つと、
自ずと何をするか決まってくる、ということがあります。
別に「よし、これをやろう」と思ったことを、
そのままやっているわけでは決してないです。
「よし、これをやろう」という「これ」の部分の決定権は、
自分にあるような気もしますが、実際のところ、
なんで自分がそれを思いついたのかは不明であることの方が多いです。

文章を書くときも、画面や紙に向かうと、「何かしよう」という意思の中に、
行為が生まれてくる感じがあります。

動くというのは不思議なものですね。
これから自分が何をするか、というのは、
自分でも知らないんですね。

このことを深く掘り下げて難しくすると、「自己の意識とは何か」の問題になります。
自分の意思で何かを操るということは、少なくとも「わたし/僕/俺/I etc...」という自分の「意識」が思っているほど自律的じゃないというか、むしろ矛盾するようですが、他律的でさえあるように思われます。

2018年4月23日月曜日

第53回 サカリさんのオブジェクトマニピュレーション

Sakari Männistöさん(@mnnistol)がシェアした投稿 -
ちょっと前のインスタグラムの投稿なんですが、 現代のジャグリングを代表する1人、サカリ・マンニストさんの、 「オブジェクト・マニピュレーション」と称したこの動画がすごく好きです。

2018年4月22日日曜日

第52回 「ながめくらしつ」による野毛大道芸の作品を見ました。

昨日、野毛大道芸で、ながめくらしつの演技を見ました。



こういう良い作品が公共の場で見られるというのは、
とても恵まれたことなんだな、とふと感じました。

2018年4月21日土曜日

第51回 『ディアの音を聴け』

今日もまた外でジャグリングをしていました。
ときどき前や後ろを大小さまざまな犬が通るので、
充分気をつけないといけません。
今日も、幸せそうな顔をした、明るい茶色のしば犬が僕の前を悠然と通りました。

さて、外でも中でも、ヘッドホンをしたまま練習することが多いです。
Bluetoothで、コードが絡まなくて、
気持ちがいいのです。


ですが、ヘッドホンを外すと少し技の精度が上がることに気がつきました。

別に今日初めて気がついたわけでもないし、おそらく多くのジャグラーに
結構起こる経験だとも思います。
ただ少なくとも僕についていえば、ついこのことを忘れてしまいがちです。

そういえば、ジャグリングって音も聴きながらやっているんですよね。

最近、電車の広告で「ゴールボール」という競技の存在を知りました。
なんでも、目隠しをしながら、鈴の入ったボールを転がしておこなう競技だそうです。



ここには多くのヒントがある気がします。

普通ジャグリングって、目でやると思ってしまいがちですが、
考えてみれば、全身のあらゆる感覚を総動員してやっているんですよね。
視覚はもちろんのこと、触覚、聴覚。
嗅覚だって使っているような気がします。
(味覚はさすがに使っていないかもしれないですね)

音と、微妙な空気の流れと、自分の手の感覚と、全てを把握するつもりで
感覚を研ぎ澄ませてやるジャグリングを意識したら、
もっとうまくなれるんじゃないかという気がしますし、
その「感覚を研ぎ澄ませる」ということ一つをとっても、
一生をかける価値のある大きな挑戦のような気さえします。

ほんとに。

2018年4月20日金曜日

第50回 小林秀雄が語ったことと、ジャグリングで感じていること



昨日、なんとはなしに、仕事の休憩中に小林秀雄さんの講演を聞いていました。
そこで、
「日本はいつでも、学問が外から押し寄せて来る国なんです」
「外から非常に高級な学問が押し寄せてきて、
これを応接しなくちゃならなかったんです」(30:34あたり)
という言葉に触れて、ハッとしました。
いつでも、外から来る学問と戦わなければならなかった。
そして、自分たちのものを生み出してきた。

ジャグリングの文化、という事に関して
似たような感覚があります。

もちろん好んで受け入れた楽しい文化でもあるんですが、
今もしかすると、その限界と戦っているのかもしれないな、という気がしてきました。

別に「日本はなんでもかんでも外から来たものを有難がって」みたいな、
陳腐なことを言いたいんじゃないんですが、
ただ似たような状況は繰り返し起こって来たんだな、と
直感しました。

前から小林秀雄さんの講演は聞こう聞こうと思っていてたのですが、
ついに聞いてみたら、実に軽快に喋る方で、
すごく面白くてびっくりした。

2018年4月19日木曜日

第49回 ジャグリング「専用」のボールが持っていた魅力

ジャグリングショップ・ナランハで売っていた
「ジャグリング専用ボール」には、とてもワクワクしました。
純粋にスキルを突き詰めるために専用で作られたボールである
というところに魅力を感じていました。
「これを持っていれば今よりうまくなれる」という予感、
「これを持っていればジャグラー」という憧れ、
それが「ジャグリング専用ボール」の放つ輝きでした。

自分の能力が上がったわけではないのに、
道具が変わっただけで気分が変わる、というのはどんな世界でもよくある事ですね。
実際、使いやすい道具を使えば、うまくもなります。

今はその感覚で始まる
「"いわゆるジャグリング道具"を持っているからこそのジャグリング」とは
別のことをよく考えているような気がします。
具体的に言えば、その世界に窮屈さ、風通しの悪さを感じている、
ということです。
単純にそういった既製品を使わないということについても考えるし、
自分で作りたい、ということも考えるし、
「量産されるジャグリング道具をジャグリングする」だけにとどまらない、
ジャグリングの新しい切り口はなんだろうな、と思っています。

雑誌を作る、というのはその一つの答えかもしれません。

10年以上ジャグリングをしてきた今、
「同一規格のジャグリング道具を使ったジャグリング」
で、仲間が世界中にできることの豊かさを知ったのと同時に、
そればかりじゃつまらないよな、ということを、示し、
実際に何か形にしたいと思っています。

しかし、昨日も書いた事ですが、
やっぱりそういう
「ちょっと変わった趣味」
として、ジャグリングを知ってもらって、
ミルズメスくらいまでできるようになってもらって
楽しくなってもらう、ということにも、
すごく価値があるな、と思っています。

現に自分自身がそういう原体験を持っているからです。

そのどちらでも、
やりがいを感じることができたらいいな、と思います。

2018年4月18日水曜日

第48回 横浜で中西みみずくんに会いました。/ ピザ回し練習会と、ジャグリングの、「遊び」の部分。

おととい、京都から来ていたピントクルの中西みみずくんに会いました。

彼とは付き合いがなんだかんだで長いです。
と言っても3年も経っていないんですが。
なんだか長く感じます。
みみずくんはジャグリングのことをとても真剣に考えていて、
会う機会があればちょこちょこ会って、
お互いに近況を報告したり、考えを交換しています。

今度、東京で公演もやるみたいです。

このところ人と会って話をすることが多く、そのことをとてもいいな、と思います。

さて、みみずくんとの話の中で、
ジャグリングって、もっと遊びっぽくていい部分もあるはずなのに、
なんだか真剣になってしまいがちだよね、ということも話しました。

というのは、先日代々木公園で行われた「ピザ回し練習会」で、
ピザ回しなんて全く触れたことがない方々が
興味を持って回して行くと、
「なんだか面白いね」
と笑顔になるのが、すごくいいな、と思ったからです。

もともと、キャッチボールだってそうですが、
ボールって投げるだけで楽しいんですよね。
「みんなで集まってジャグリングをする」
となると、スキルを切磋琢磨する、という方向に行ってしまいがちですが、
根本的には、「ボールを気持ちよく投げたいな」という欲求を満たす部分だけでも、
ジャグリングには価値があるような気がします。
だから、高く放り投げるとか、遠くに放り投げるとか、音が気持ちいいとか、
そういうジャグリングにある「爽快感」みたいなものを
もっと味わいたいな、と
みみずくんと話す中で思いました。

2018年4月17日火曜日

第47回 ジェイが、7フィンガーズの『ロフト』に出ていたこと



ジェイ研究みたいになってきました。
なんにせよ、現代のジャグリングを読んでいくとっかかりとして、
ジェイはとても重要な人物だと思います。

先日のBevisと同じカンパニー"Kapsel"名義で行なっている
Blickを観た感想を書こうかとも思ったのですが、
こちらの動画を見つけてちょっと驚いたのでひとまずこれについて。

The 7fingersの『Loft』という作品の、ドイツで行われた2005年公演です。
この動画の公開は2016年。
『Loft』は、生活感とサーカスを掛け合わせたような作品です。
観客が冷蔵庫の中から出てきたり、
楽しい仕掛けも満載。

その作品にジェイが出ていたのが驚きでした。
ジェイは「硬派」な人間で、あんまりポップなものとは関わりがない、とか
勝手なイメージがあったのかも。

実際はジェイはカメレオン的に色々やっていることが
インスタグラムや、その他の媒体から伝わってくるのですが。

どういうタイプのジャグリングがあるのか。
どういう場でジャグリングを発表するのか。
発表されるジャグリングと、発表されないジャグリングがあるということ。

今日頭をよぎったのはそんなことでした。


2018年4月16日月曜日

第46回 5Catchesに「もう書いてあること」/ 先人の知恵

ジャグリングの「研究」について考えています。
昨日の夜、なんとなしに本棚からジェイの著書『5Catches』を取り出して読みました。
こんな一節を見つけました。


"(...) The availability of cheap, mass-produced props leads to a culture of not what is being used, but how things are used-(...)"
筆者訳:安価な大量生産のジャグリング道具が手に入るようになったことで、「なに」を使うかではなく「どうやって」使うかが問題になるようになった。

この本をよく読んでいなかったために、今まで見落としていた。

このことは、僕がジェイ・ギリガンについて書いた卒業論文で提起したことの
一端でもありました。
「今世の中に広まっているジャグリング道具が画一的なのは、
ジャグリングが広まるためには『道具が画一化する必要があったから』」
である、ということを言いました。
つまり、同じ規格の道具で、「自分にはこれができる」ということが
趣味/競技ジャグリングの焦点とされてきたわけです。

なんだ、ジェイ自身が書いていたんじゃないか。
やはりまだまだ、とんでもないくらい研究不足だな、と思いました。
まずはやっぱり、学問の王道のごとく、先人の知恵を知るところから
始めなければならないな、と思います。


2018年4月15日日曜日

第45回 ジャグリングで「いまおこなわれていること」をより広く知ることについて



昨日に引き続きジェイの話から始めます。
Bevisの関連から、こんな動画を見つけました。
1時間もあったので、ざっとだけ見ました。

ジェイがジャグリングのヘッドティーチャーを務める
サーカス学校DOCHでおこなわれた、
『音楽とジャグリング』というコースの成果発表会のようなものです。
おそらく通常のコースとは別で、
特別クラスのような形で短期でおこなったものだと思われます。

思ったことがふたつあります。

ひとつは、
ボールにセンサーを埋め込んで、
Bluetoothでプログラムされた音楽機器につなぎ、
音をランダムで再生する
というアイデアを、「実際に実現させる」のは素晴らしいな、ということ。

今あるものに対して多くを「語ったり」
新しいものを「考える」のはよくあることです
(簡単ではないかもしれないけど)。
しかしそこで本当にオルタナティブを作ってしまうところが、
やはり真の行動だよな、と思います。
気が引き締まりました。
さすがです。

そして思ったことのもうひとつは、
この動画が昨年11月のものだったということについてです。
つまりこういう面白い実験を、全然知らなかったということです。
(ジェイのことだからこんなようなことをやっているんだろう、
というのはわかっていましたけれども)

僕もジャグリングのシーンを知ったような顔して語っていますけど、
全然知らないんですよね。

知らなきゃいけないのは、もちろんジェイのことだけではありません。
色々な国の、色々な人たちが持っている可能性と、
今おこなっていることについて、知りたいなと思う。
一体あとどれだけ勉強しなきゃならないだろう、と少しぞっとしました。
しかし同時に、もっと勉強しなきゃ、と熱意も湧いてきました。

そこにはさまざまな、「ちょっと立ち止まって考えたいこと」もあります。

まずそもそも「知ることはなにはともあれ大事なことだ」というのは真なのか。
先日腹話術師のいっこく堂のインタビューを読みました。
唯一無二のパフォーマーになるための、「独学」の大事さを説いていました。
彼は「師匠について学ぶこと」について話しているからちょっと違うんですが、
しかし他の人がどんなジャグリングをしているのか知る、ということは、
かえって「影響されること」になりはしないか、と思ったりもする。

僕の腹話術は、すべて独学です。なぜなら僕が目指したのは“腹話術師”ではなく、“誰もやったことのない芸を披露する腹話術師”だったからです。弟子入りをすれば、まずは師匠の模倣から始まります。いずれオリジナリティが出てくるにせよ、そこかしこに師匠譲りの技術が顔を出す。真に唯一無二を目指すには、独学という選択しかあり得なかった。
(上記サイトより引用)

けれど、とりあえず知るための手段が用意されていることは、
とにかく無駄ではないよな、とも思いました。
つまり、知ろうと思えば、知ることはできる、という状態です。

そして、その知るための手段は、
「インターネットによって全てのリソースが誰にでも開かれている」
ということだけではダメなのだ、と思います。

その中で「なにを取捨選択したらいいのか」がわからないからです。
なにが大事なのか、ということが、
あらかじめ誰かの眼によって一度淘汰された中から、
大事な情報が、編集された形で
簡潔に伝わってくるのが大事だよなと思います。

こうやって書くとそんなの当たり前だよ、と思いますが、
タイムラインに流れてくる情報を
受動的に受け取るだけで精一杯になってきた時代で、
昨今そういうことの大事さはむしろ増しているような気がします。

2018年4月14日土曜日

第44回 『Bevis』を観て

現代のジャグリングを語るには欠かすことのできない2人、
ジェイ・ギリガンとエリック・オーベリによる
"Bevis"(べヴィス)という作品のフルバージョンがYoutubeで公開されました。



以下は、ジェイのフェイスブックに載せられていた解説です。

Erik and I have been performing this show since 2014, mostly at schools in Sweden. We usually link it directly into a workshop with the kids, which gives an overall ending to the show itself. In the workshop we teach juggling without the need for the audience to have any props. This film documents the project up until the point that we interact directly with the audience. "Bevis" was specially made to play in any room that has minimal ambient distractions, and with ordinary everyday lighting. "Bevis" means "Evidence" in English-

筆者訳 Translation by author 
これはエリックと2人で、主にスウェーデン各地の学校を舞台に2014年から披露している演技です。
通常は、演技のあとに子供向けのワークショップを行い、ショーを締めくくります。
ワークショップでは、子供たちに、道具を必要としないジャグリングを教えます。
この動画では、そのワークショップに入る直前までの部分を撮影しています。
"Bevis"は、「気を散らす要素がない、自然光が入る部屋」で行うことを想定して作った演技です。
(スウェーデン語の)Bevis とは、英語で「証拠」という意味です。

Kapsel HP

30分弱と少し長いです。
大まかな部分だけ観たい、という方はこちらをどうぞ。



とてもいい作品だな、と思いました。
理由はいくつかあります。

筆頭に来るのは、ヴィジュアルと音楽の心地よさです。
軽やかな動きと、優しい表情。
シンプルな服装。
道具の配色、素材のぬくもり。
穏やかな音楽と、力の抜けた、コミカルなドラの音。

この演目は図書館のようなスペースでやることが多いそうです。
その意表をつく「場所の面白さ」と、
ドラの音が鳴り響くところの「静けさを活かした演出」、
やおら鉛筆を3本組み立てて、その上でコップを載せるところのような
準備にしっかり時間をかけて見せるところ、
パターンを丁寧に見せていって「分からせる」やり方など、
環境の特質が生かされていて、とてもいい効果を出しています。

演目を「子供のために見せて」「ゆったりとした質感」を伝えるということが、
すごくはっきりしています。
下の短縮版では、子供達が喜んでいる様子が伝わって来ますが、
反応がすごく自然です。

「ジャグラーとして持っている技術を、いかに作品に昇華するか」
という点で特に非常に学ぶところの多い演技だ、と思いました。

これだけ丁寧な作品を作れる2人を、本当に尊敬します。
なんだかとても嬉しくなってしまいました。

2018年4月13日金曜日

第43回 批判的な道具(クリティカル・プロップス)について



道具についてとやかく言うのは簡単だけど、
やっぱり実際に作ってこそ面白いよな、と思いました。
こういうジャグリング道具があるとどうなるのだろう、と思ったら、
形にしてみる。

それによって「全く新しい面白いジャグリングが開ける」
ということは目的ではありません。
もちろん、偶然面白いジャグリングが見つかってしまう可能性も
なくはないのですが、それは副次的産物として、
そもそもジャグリング道具の選択肢の幅って狭すぎるよね、という事実を
常に念頭に置いておくために、
実際に既存のジャグリングでは通常使われていない
形、素材、色、コンセプトで道具を作ってみる。

僕が最近気になっているのは、
主に素材のことです。
ジャグラーは常にモノを使っていますから、
「触れたくなる」
「触れる喜びがある」道具を作ってみたいなと思います。

これは面白そうだぞ、と色々妄想が膨らみました。

そもそも流行ることすらも目指していない道具、
というのはなんだかいいな、と思いました。

2018年4月12日木曜日

第42回 淡路島にも行ったことがない



淡路アートサーカスフェスティバルです。
島で「アート」というとやっぱり香川の直島のイメージが強いです。
こういうイベントをきっかけにして、日本を回ってみたいなと思います。

この頃人と話していて気がつくのだけど、
あんまり日本の地方に出たことがない。

2018年4月11日水曜日

第41回 外でジャグリングすることの気持ちよさ。

体育館でじっくりノートを取りながら
練習メニューに沿って計画的なジャグリングをするのは、
じれったいけれど着実に成長する楽しみがあります。
床も綺麗なので、道具が汚れません。

近所の体育館がいつでも使えので、
最近は頻繁に体育館でジャグリングをしています。
なるべく予定を組んで、一日おきに
2時間くらいは体育館で練習したいなと思っています。

まぁなかなかそうも行きませんが。

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甘いよなあ、と思いつつも、
春になって暖かくなったので、
「まぁ今日は外で30分ぐらい練習すればいいか」
と肩をすくめて思ったりします。

いざ外に出て風に吹かれながらジャグリングをすると
実に気持ちがよくて、
やっぱりちゃんと外に出ないとダメだな、とか
ゲンキンに思ったりします。

「ジャグリングをする」という自分なりの理由で外に出られるのは、
けっこう幸せです。

フォレスト・ガンプみたいに意味もなく走り続けるのも憧れるけど。

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しかしこういうことも起こります。 

2018年4月10日火曜日

第40回 いやちょっと待て、どれだけ豪華なんだ、IJC

 イスラエルで毎年開かれているジャグリングコンベンション、IJCが今月5日に終わりました。
 気になってゲストの面々を見てみたんですが、めちゃくちゃ豪華ですね。
 http://www.ijc.co.il/Convention/ijc25/guest-artists/

 イスラエルには長らく行ってみたいと思っているんですが、まだ行っていません。
 今年に限らず毎年ゲストは豪華だし、コンベンションの会場についても、色々な人から、いい印象しか聞きません。「会場には川が流れていてね」とかなんとか、とにかく綺麗なところだ、ということです。
 
 海外のジャグリングコンベンションって、なんでこんなに魅力的なんでしょう。
 もちろん、海外にいく、という行為そのものに魅力があるんでしょうけど、それに増して、自分がこんなにも面白い人たちと一緒の共同体で、ジャグリングをやっているんだ、という満足感は他には替え難いです。
 なんども繰り返し語ってきていますが、やっぱり僕のジャグリングに関する情熱を一番駆動しているのは、ジャグリングを通して海外の空気に触れることなのだ、という気がします。

 イスラエルってどんなところなんだろう。

2018年4月9日月曜日

第39回 同じテーマで

 渋谷のBunkamuraで行われている、猪熊弦一郎の展覧会『猫たち』に行ってきました。もともと猪熊さんの絵は、香川の丸亀駅前にある美術館を訪れて以来ずっと好きでした。東京にくるというので、出かけてみました。
 様々な猫たちの絵があって、その量にはちょっと呆れてしまいます。

 展覧会に行く前に、このサイトを読んでから行ったのですが、1000枚で一単位、ということをおっしゃっていたようです。
 http://www.1101.com/inokuma/2018-02-22.html



 アイデアとか練習は、うまくいかないと「この方法はダメなのかな」と思ってしまいがちですが、単に量が足りないのだ、と考えろと言われているようでもあります。
 なんだか勇気付けられました。

2018年4月8日日曜日

第38回 『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 5

 「ジャグリング」ということば単体について何日間か連続して無理にでも書こうと思ってみてわかったのですが、湧き出てくるアイデアは、実践されてこそ意味がありますね。

 目下、ジャグリングに関する考えを共有、発信していく場所、「Juggler's Base」というものについて何人かの仲間と一緒に考えています。そこで実践されることが、そのまま「ジャグリング」ということばを取り囲む状況について考えることになっていくのだろう、という気がしています。なので、このあたりでことばだけについて考えるのは一旦終了とします。意味がないわけではないんですが、もう少し次に繋がることについて書いてみたいので。
 さて、というわけで今日はオブジェクト・エピソードで見つけた面白いトピックについて。
 404errorという人が立てたこのスレッド。
 Juggling and Wayne McGregor’s project ”Thinking with the body” http://objectepisodes.com/t/juggling-and-wayne-mcgregors-project-thinking-with-the-body/530


 ウェイン・マクレガーという振付家が、具体的な形(TEDの「T」とか)を、どういう風に即興でダンスに翻訳していくか、ということを語っています。そこで、ジャグリングでも似たようなことができないか、という提案。
 ダンスとジャグリングには多くの共通点があるし、学べることもたくさんあると思います。ジャグリングでも、ほとんど否応無しに体は提示していることになっていますから、ダンスについて全く何も知らないよりは、やっぱり知っている方がいいんじゃないかと思います。
 このビデオの具体的な例で言えば、文字を頭に思い描いて、実際にステージの上にも思い描いてみて、それをジャグリングでなぞって表現する、というのは、振り付けを作る方法として有効です。

 こういう方法論をすんなり受け入れるためにも、「ジャグリング」という語義を、常に広く捉えておくのは大切だな、と思います。「それは僕のやるジャグリングじゃないから」とあんまり早く判断してしまうのは、もったいないと思うからです。
 もちろん、ダンスの方法論をほいっとジャグリングに適用したらすぐに面白いものが生まれる、というわけにはいかないでしょう。それは結局ただの援用の域を出ずに、中途半端なものしかできないような気がします。
 でも、その理論とか、考え方をよく学んだ上で、ジャグリングでそれを再現してみて、さらにそれをジャグリング特有の表現みたいなものに昇華できたら、きっと面白いだろうな、と思います。(自分で実践していないし、今思いついただけなので、実際にどうなのかはわかりませんけども)
 
 ダンスとジャグリングの組み合わせ、ということでパッと思いつくのは、ガンディーニジャグリングです。
 カンパニー代表のショーンは、バレエや、トリシャ・ブラウン、マース・カニンガムといった人たちのダンスに魅せられていて、それをジャグリングと掛け合わせた時の、二つの分野同士の対話を楽しんでいる人です。(2016年に行ったインタビューで語っていた。)
  
 時々、ジャグリングの外にインスピレーションを求めると、結構ワクワクします。

2018年4月7日土曜日

第37回『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 4

 「ジャグリング」と言う行為は、基本的に「モノ」があることによって発生します。
 最近は、「モノ」を起点に考えるのが、ジャグリングの研究の、とにもかくにも王道だよな、と思う。モノがないジャグリングというのは想像できないからです。(でももしかしたら、モノが一切ないけどこれはジャグリングである、と、多くの人が認めうるようなものが、「あるけど誰もやっていない」だけかもしれないので、完全にないとは言い切れない)

 ジャグリングにおいて、「モノ」を起点に考える、とはどういうことか。
 たとえば、現代のジャグリングでは、使われる道具が画一的だよな、と思ったとします。それにはきっと理由があるはずだよな、と考える。
 理由について考えだすと、多様な考察ができます。道具が同じで、技術が違う(それを扱う能力の差異を浮き彫りにさせる)ことを目指されているんだろうな、とか、なんでこの形に落ち着いたんだろうな、とか、「ジャグリング道具のお店」という機構は間違いなく大きな役割を演じているよな、とか。
 「画一的な道具を量産できる」とはどういうことなのかについても考えが及びます。それはそこに、需要があるということであって、供給するだけの技術や、経済基盤がそこにある、ということでもある。要はジャグラーは多いし、「ジャグリング市場」でお金も回っているということですね。
 昔の「ジャグリング」(ここでは、「ジャグラー」という共同体を囲んでいた社会的様相のことではなくてその行為そのもの)について考えたいな、と思ったときも、まず道具について考えるのが一番最初だろうと思います。
 クラブジャグリングの起源を考えたいとする。あれはなんであの形を投げるようになったんだろうか、ということに思いを致したのちに、うーむ、じゃあこの時代ぐらいがおおよその起源だとして、なぜ棍棒がジャグリングされるようになったのか、と、社会的な歴史の研究に入っていける。きっかけになるのはモノです。
 50年ぐらい前のサーカスジャグリングだと、「皿」を投げていたりして、(リングではなくて、皿)昔はそれを使っていて、いまは使われないその理由ってなんだろうな、とか考えられたりします。あとは、道具は手作りしていたんだよな、とか。
 とにかく、行為としての「ジャグリング」について考えるとき、そこには、モノを起点にして考える、という、重要なヒントがあるんだよな、と思います。
 ジャグリングというのは、「モノがジャグリングされた」という受動的な状態を、ひとえにその行為の認識の端緒としているんでしょうね。
 モノが何かしらの影響を受けて、状態が変わったときに、それをジャグリングと呼びうることが多い。
 その次に、そのモノを扱う身体、が勘定に入って来る。

2018年4月6日金曜日

第36回『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 3

 僕が雑誌でカバーしたいと思っているジャグリングはなんでしょうか。
 「ジャグリングの雑誌」というと、そのカルチャーを紹介する、というイメージが僕にはあります。「今、ジャグリングでは何が起こっているかということの概観」みたいな。そういう全体像は、僕にもまだ全然掴めていません。
 だから自分自身がジャグリングをもっと理解するためにも、なるべく「ジャグリングをする人たちの共同体」とはどんなものなのか、その地域差、年代の差、過去の話など、研究した方が良いだろうとおもっています。
 でも同時に、「ジャグリングをする人たちの集まり」についてだけ語りたい訳ではないようです。わざわざ「書く」ジャグリングの雑誌とついているのは、僕が行為としての「ジャグリング」について、きちんと考えて、ジャグリングという言葉でくくれることをもっと増やしたいな、と思っているからです。そのために、もう少し分析的な文章を蓄積したいなと思っていたからです。
 たとえば、ボールはなぜ丸いのか?(なぜ丸いボールが、ジャグリングをする人たちに選ばれているのか?)とか、ジャグリング道具の素材について、現行の素材が使われている理由の研究とか。もしその素材の選択に他の余地があるならそれもみてみたい。
 僕たちが「ジャグリング」と呼んでいる行為の正体に迫りたいな、と思っています。そして具体的に読める形で開かれていれば、それをもとに、考えを深めることができるよな、と思う。

2018年4月5日木曜日

第36回『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 2

 僕が「ジャグリングの雑誌の編集長をやっている」という文章について考えてみます。 
 「ジャグリングの雑誌」ってなんなんでしょうか。僕にもはっきりとわかりません。
 このことについてしっかりと考えたことはあまりなかったような気もします。
 一体ここで指されている「ジャグリング」とはなんなのか。
 
 遡ると、15歳の時に「ジャグリング」に出会ったところに行き着くような気がします。なぜかといえば、その時に「これがジャグリングだよ」と言われて紹介されたものに、僕は身を入れ出して、その後そのキーワードを元に、「ジャグリング」を巡る世界をみてきたからです。
 そしてその延長に、僕が卒業論文で「ジャグリング」について書くことがあったし、それをきっかけに、「書くジャグリングの雑誌:PONTE」は誕生しました。
 
 お店に行ったり、公演を観に行ったり、サークルに入ったり、海外のフェスティバルに行ったり、ジャグラーの友達を作ったり、色々なことを経てから、PONTEにたどり着きました。これら全ての根底には、自分は「ジャグリング」に関心があるんだ、という半ば自己暗示のようなものがあったようにも感じます。
 少なくとも中学生の頃から数年は、特に心に正直に聞いて、「自分がやりたい」と想っていることを考え抜いてジャグリングを選んだ、という感じではないです。(今はそうなのか、と聞かれたら、黙って見つめ返すしかありません)

 特に最初の頃は、「ジャグリング」と名のつくものには、とにかく敏感でした。図書館でもジャグリングの本を検索してみたり、シルク・ドゥ・ソレイユに関心が向いたのもほとんど「ジャグリング」という興味を以ってのことだし、別にそれが実際に面白いとか面白くないとかに関係なく、とにかく「ジャグリング」という言葉そのものに何か自分を寄せていたように感じます。
 自分が「ジャグリングのウェブサイト」に紹介されている技を練習するのははまっていた、誰に言われるでもなくやっていましたから、それは間違いなく好きだったのでしょう。でも、なんでもかんでも「ジャグリング」を拾い集めていたのは、果たして自分が主体的に何かを選んでいた結果だったのだろうか。(サークルに入ったこととか、論文を書いたことでさえも)


 今は、昔に比べたらきっと「ジャグリング」という言葉に対してもっと批判的だろうし、距離があるし、また距離は近いと思います。
 自分の立ち位置を、冷静に測るように注意しているようにも思います。

 わかりづらいですけれど、例えば僕は今人類の歴史に関心があるんですが、人類として生きる中で、「ジャグリング」と呼ばれるものに多くの時間を割いて人生を過ごしている自分は、一体人類700万年の歴史の中の、どういう位置に措定することができるのか、それがわかりたくて、本を読んで勉強する、という程度には、「ジャグリング」という言葉とそれにまつわる自分の行動を離して見ようと思っています。
 同時に、「人類」とかそういう白けちゃうようなことを言うんじゃなくて、ジャグリングの、スキルを純粋に磨く部分って、面白いよな、と理解しようとも努めています。

2018年4月4日水曜日

第35回 『ジャグリング』ということばをめぐる冒険

ジャグリング、ジャグリング、と連日言っていて(書いていて)思いました。
 「ジャグリングでは」という時の「ジャグリング」は、場合によって指すものがまったく違います。
 
 純粋に行為そのものを指して「ジャグリング」と呼ぶこともある。
 大道芸でカラフルなボールを投げている人がいて、「あ、ジャグリングをやっているね」と指差して言う時のジャグリングがそれです。
 その行為について、 『あれは人間がとりうる行動として、今まで見たことがあり、聞いたことがあるラベルを用いてどのカテゴリに入れるかといえば、ウォーキングでも、スイミングでも、ボルダリングでもなく、ジャグリングだ』と、他の現象との差異を以って、「あれは『ジャグリング』である」と特定しています。
 一方で「ジャグリングではそういうことをやる人はいないね」という時の「ジャグリング」もあります。それは、「話し手が知っている範囲での、ジャグリングをやる人の共同体」という意味での使われ方です。

 今例を挙げたこのふたつ以外にも、 「世界でジャグリングをする人たち」全般の傾向について語っているのか、「自分の周りにいる、ジャグリングをする人たち」の傾向について語っているのか、話し手と聞き手でお互いにあんまりマッチしていないときだってあると思います。

 こういうことばに関する議論は、時として不毛ですけれど、少なくともそれについて考える過程で、自分の言葉に対する認識を「耕す」ことはできるだろうと思います。
 これからしばらくジャグリングという言葉について考えてみます。 一週間ぐらい考えられればいいな、と思いますが、どれぐらい続くかはわかりません。そもそも意味があるのか、ということも言えると思う。ともあれ、今自分がどの『ジャグリング』について話をしているのかちゃんと識別するのは、態度として間違っていないだろう、と思います。

2018年4月3日火曜日

第34回 ノービとの撮影

 この郵便箱にも何度か出ている(こちらこちら)ノービ・ウィットニーさん。先日、横浜で撮影をしてもらう機会を得ました。
 
photos by Norbi Whitney (クリックで拡大)

 あまり時間がない中での撮影だったのですが、とても仕事が早くてびっくりしました。僕があらかじめ考えていた撮影場所に着くと、アングルを決めて、いきなり撮影開始。さくさくと何枚か指示をもらいながら写真を撮ると、「じゃあ、次は」と言って、違ったアングルを提案してくれます。
 10分くらいで一箇所の撮影を終え、次の場所へ。あっというまでした。


photos by Norbi Whitney (クリックで拡大)

 彼から聞いた話だと、以前サーカスアーティストと仕事をしていて、ウォーミングアップ(逆立ち)をしている間に写真を撮ったら、「じゃあ始めましょう」という時には必要な写真は全て撮れていた、ということもあったそうです。
 とにかくテンポが早く、かつ丁寧な仕事をする人です。

大好きな美術館の前。

 さらに写真を撮った後の加工も迅速、精密です。今まで作品を何気なく見ていた時には気づかなかったですが、色味を変えるだけではなくて、人を消したり、看板を消したりと、いろんなことをしているんですね。その辺りは、人によってスタイルが違うのでしょうが。
 いざ自分が撮られて、この部分にはこれがあったはずだ、と知った目で見ると、いかに手間をかけて修正、調整をしているかがわかります。
 
 貴重な体験でした。もう日本は離れたようですが、またいつか世界のどこかで会えるといいな、と思っています。

ノービさんの作品はこちらより。
Web: NorbiWhitney.com
Insta: instagram.com/PhotoNorbi

2018年4月2日月曜日

第33回 道具をもっと作りたい

 一日の早いうちに書いておけばいいんですけど、なんだかいつも寝る間際に書いてしまいます。それを、だいたい朝7時に、セットして寝ています。

 今日ふと、道具をもっと自分で作りたいな、と思いました。
 きっかけは、ディアボロでバランスをやったから。もしディアボロを回さずにバランスを取りたいのなら、別に現行のスティックでやる必要全然ないよな、と思った。今あるスティックだと、やりづらいことがたくさんあります。でも、そのやりづらいこと、をやりづらい状態で達成するから面白い、と捉えるのもアリだし、それを、道具を加工していくことでやりやすくして、新たな「やりづらいこと」(要はそれを「難易度が高いこと」というのでしょうけど)を見つけるのもアリだし、どちらも権利があるな、と思います。

 これは、例えばディアボロにベアリング(回転軸。固定軸に比べてより長く回る)を使うことの是非(みたいに僕は捉えていませんが)と同じ俎上にある議論だと思います。

 道具に関する研究というのは、身を入れてやったら随分面白そうです。

ちょっと考えた

2018年4月1日日曜日

第32回 ジャグリングの「ビデオ作品」を列挙してみよう

 前にも書きましたけど、毎日書くというのは根気の勝負だなとつくづく思います。仕事から帰って来て別の仕事を2時までやった後に、さて責務を果たしたし、今日はジャグリングで何を書こうか、と目をしばしばさせていると、さすがに疲れたな、と思う。 
 まぁ自分で言ってやってんだから世話ないや。
 こういう非プロフェッショナルな態度で書ける場は、何はともあれ楽しいです。

 さて、困った時のObject Episodes。
 Juggling movies というスレッドが立ちました。
 ジャグリングを扱ったビデオを列挙してみようよ、というスレッドです。
 言い出しっぺは、Juggle Jabber という、ナイスなプロジェクトを続けるオランダ人のDaniel です。

"Juggle Jabber"はこんな感じ。インタビュイーの選択が、毎度絶妙です。一回出てみたい。

 このリストを眺めているだけでも、2006年からジャグリングをしている僕は結構懐かしい思いにとらわれます。と同時に結構見てないやつがあって、それは、ちょっと見とかないとな、とは思ってます。

Ohashi Archiveも拾われていました。
大橋昂汰さんによる素敵なジャグリングビデオです。ぜひ、ご覧くださいませ。

 
今の僕はこういうリストを見ると、やっぱり欧米中心的だな、とか思っちゃうんですけど(と同時に、そういう土俵に自分が上がって行ってるんだから当たり前だよね、とも思うんですけれども)でもまぁ本当に、「ジャグリング」って、ユーロ・セントラリズムがある程度やっぱりありますよね。アメリカもでかいんだろうけど、「ジャグリングの歴史」を語る時に、往往にしてどうしても欧米のことを多く語ってしまうことになる。「ジャグリング」という言葉自体がわざわざ英語から来た単語を使っているので、自然そうなります。
 「大道芸の歴史」とか言ったらまた違う話になるし、「器用にものを操る芸の話」と単純に日本語で言い換えるだけでも、また少し範囲が変わる気がします。
 そういうところは意外と、盲点であります。
 
 でもなんにしても、僕は英語を日本語に置き換えた単語として広く人口に膾炙している「ジャグリング」が示して来た世界を、この10年以上好きでやって来たので、やっぱり、その範囲の歴史はできるだけ広く押さえておかないとな、と思う次第です。

 ちなみに、こういう古き良きインターネット感のある、羅列系リストも僕はすごく好きです。なんか、こういうの作りたいな。イスラエルに住んでいるアメリカ人、スコットのHP。  http://www.juggler.co.il/scott/library/#videos

2018年3月31日土曜日

第31回 アメデオに会う

    昨日は、イタリアから来たジャグラーの友達、アメデオと、その奥さんジュリアに会いました。
 東京にある彼らのホテルまで迎えにいき、そのまま横浜に来て半日を過ごしました。

横浜・大桟橋。

横浜・桜木町にて。気候も景色もペルフェット(完璧)でした。

 イタリアでお世話になった彼らに横浜を見せることができ、おまけに桜も満開だったので、実に幸福な時間でした。
 
昨年の夏、家にお邪魔した時。


2018年3月30日金曜日

第30回 ジャグリングで、「あったらいいな」の言葉リスト。

Language wishlist thread (for fun)
オブジェクトエピソード最新スレッドです。

ジャグリングで、「あったらいいな」の言葉リスト。
まず初めに、スウェーデンのジャグラー、アメロンさんが「ドロップしやすさ」という意味で、Dropabilityってどう、とのこと。
なるほどね。

If You Are a Jugglerも読み終わり、(実にいい本でした)ブレイキンの歴史をちょっとかじったりしていたら、一つの「形式」に一度傾倒してみるのもいいかもしれないな、とか思いました。

今までちょっとジャグリングを一つのカルチャーとかコミュニティとしてみるのに疲れてしまっていた節があったのですが、(なのでより個人的な方向に寄って来ていた、というのもある)ちょっとまた、ジャグリングをジャグリングという広いものとして受け止めようかな、という気になっている。

2018年3月29日木曜日

第29回 「『河合塾の広告をケニアのおじいさんに渡してもしょうがない』みたいな」

 「ガレージで知り合いのために演奏していた時に意味があると思っていたことは、不特定多数の聴衆に向けて演奏し始めた時、全く意味を持たなかった。そこで『良い』されることは全く違った。そこでは美学が違うのだ。」

  BBC Radio4を聞いていたら、ミュージシャンが言っていました。
 このミュージシャンが誰なのかはわからず仕舞いだった。

 先日桜が咲く公園でジャグリングをしました。すると、わいわいと好き勝手遊んでいた保育園の子供たちが集まって来ました。その子たちのためにディアボロを回してあげた。

 オーディエンス、ということについて考える。
 メッセージを間違った受け手に届けており、反応がなくて落ち込む。自分が本来の受け手ではないメッセージを受け取ってしまって、落ち込む。自分の言葉に、思ってもみなかった受け手から反応があって、嬉しい。全く予想もしなかった方向から賢明な言葉が来て、インスピレーションを得る。

 何かをする時は、自分が何かをすると影響を受ける人がいる、という時にやる気が起きるものです。
 誰に見向きもされなくたって、自分のやりたいことをやれていればそれでいいんだ、と思える時もあるような気がします。でもそれは、「祝福してくれる受け手が最終的に多かれ少なかれ、いる」ということに自信が持てるからなんじゃないかと思います。

 何か自分のやっていることにしっくり来ない時というのは、もしかして、うまく届け先を想定できていない時なのかも。

2018年3月28日水曜日

第28回 怒涛のエンリコ・ラステッリ


 まだ  "If You Are a Juggler"(筆者訳:『ジャグラーというものは…』)を読んでいます。伝説のイタリア人ジャグラー、エンリコ・ラステッリに関するこんな記述を見つけました。(かいつまんで要約)

 「エンリコの結婚式のレセプションパーティがカルコフサーカスの中で行われた。来客が『ゴルコ!』(ロシア語で、新郎新婦にキスをさせるため、囃し立てる時の言葉)と叫び、新婦が振り返ると、そこにラステッリはおらず、誰もいないサーカスリングで一人新しい技を練習していた。」

 前段に、"...Dedicated himself entirely to his art..."(彼は自分のアートに全てを捧げた人で…) と書いてはありましたけど、まさか結婚式でもジャグリングをしちゃうような
人だとは思いませんでした。でも、Dedicate oneselfとは要するに、こういう逸話がある、ということなんでしょうね。

エンリコ・ラステッリの貴重な映像。



2018年3月27日火曜日

第27回 外国から来た本を読んでいます


 先日PMJugglingの板津さんより、この本を預かりました。
 "If You Are a Juggler..."というタイトル。出版は2018年、つい最近です。著者は、20世紀を生きたロシアの伝説的サーカスジャグラー、アレクサンダー・キス。「ロシア(ソ連)におけるジャグリングの父」と言われています。原作のロシア語版は1971年にソヴィエト連邦で発行されましたが、それが昨年、オランダのジャグラー、ニルス・ダンカーによって実に40年近くたった今、初めて英訳されたものです。
 今度PONTEの方にレビューを書く、というので、読んでいます。
 前半を読み終わりましたが、エンリコ・ラステッリを初め、その他名を馳せたジャグラーたちの歴史が、個人的な回想とともに綴られていて、面白いです。
 「今のジャグリング」を相対的に捉えるには、もっとこういう本を集めて読まねば、という気になっています。

2018年3月26日月曜日

第26回 動くのはわからない

 少し久しぶりに体育館でしっかりジャグリングの練習をしました。

 最近はジャグリング以外にも、「身体」そのものに関心があります。
 逆立ちしてみたり、ブレイクダンスのパワームーブを練習してみたり、しています。
 とにかく五体を存分に使うように心がけています。

 身体を動かすというのは、純粋に身体にいい影響を与えるものだな、と思います。

 それまで鬱屈としていた気分も、陽が差し込む体育館で動いているうちにポジティブなものに変わっていくのがありありと感じられます。
 こうやって書くと非常に月並みなことを言っているようですが、実際に体験すると、はっきりと自分の中で何かが変わるのを、感じるんですね、これが。

 さて、身体を動かす、ということで大事なのは、「実際に動くまで、それがどういう影響を自分に与えるのか見当がつかない」ということです。
 たとえば事務所で仕事をしていて、ああ、疲れたな、と思った時。
 「身体なんか動かしたってしょうがない、それより今はこの仕事を終わらせなきゃ」とか、思ってしまいがちです。
 でも天気のいい外に5分でもいいから出て散歩をすると、一体今までの焦った気持ちはなんだったんだろう、というくらい気分が変わりますね。
 それは、実際に外に出てみるまで、予想もつかなかったことです。

 ところで春のにおい、ってありませんか?
 そしてそのにおいって、ある日突然、「あ、これは春のにおいだ」と、わかって、春がきたな、と思います。
 いいものだ。

2018年3月25日日曜日

第25回 Future Circus Labとか続けることとか


 昨年台湾で11月に行われたFuture Circus Labというイベントの写真です。
 このフェスティバルの主催者の一人であるヨウヨウ (なんだかんだこの人とは付き合いが長い)も先日、ブリュッセルにいました。なので移動中など、色々と話しました。
 やはりこの規模のフェスティバルを開催するのは、難しくなってきているみたいです。多くは、お金の面で。だから、これからどうしたらいいか、まだ考えている、と言うことでした。別にフェスティバルではなくても、他にもやり方はありそうだよね、ということ。
 
 改めて、続ける、って大事だよなあ、と思う。
 今僕もちょうど、何か場を作りたいと考えている最中です。
 昨日は、PM jugglingの板津さんと、ピザ回しすと、そいそいと一緒に集まって、検討会を開きました。まだまだ色々と文字通り検討中ですが、とにかく、川沿いの桜をほっこり楽しむくらいの気分で、気負わずジャグリングとずっと関わり続けられる、面白いことができたらいいな、と思っています。多摩川沿いの桜は、綺麗でした。



http://jugglingponte.com/?p=2399

2018年3月24日土曜日

第24回 毎日ジャグリングについて書くことは

 毎日ジャグリングについて面白く書くというのは、あまり易しいことではありません。
 ジャグリング雑誌の編集長をしているくらいなので、多少はジャグリングについて世間一般の人よりジャグリングについて深く考えている自信はあります。
 しかしそれとこれとは話が全く違います。
 ジャグリングに関して、コペルニクス的転回を与える気づきだとか、海外で起きた面白い話だとか、奇想天外なインタビューだとか、とにかく読者が何らかの喜びを感じるような話題を毎日提供しなければならないとしたら、それは生半可なことではありません。

 僕もそれなりに頑張っていますが、どうもそういうのを「ひねりだして」書こうと思っても、筆が前に進まないんですね。「面白いことをしよう」というプレッシャーを過度に自分に与え過ぎてしまうと、ものが書けなくなります。

 それよりは、そういう思い込みから「まぁまぁ」と自分を解放してあげて、自然と、書きたいと思えるお話を書くほうが、書くほうにとっても読む方にとっても、無理のない、楽しみがいのあることなんじゃないか、と思います。(もしくは、「そんな風にして書かれたもの読むのは時間の無駄だ」とおっしゃる方もいるかもしれませんね。ごもっともです。読まれなくても仕方ない。)

 しかし人が読んでも面白い上に、自分が書きたいこと、というのはそんなに簡単に、毎日、日の出みたいにきっちり出て来てくれません。多くの場合、そういうことは、とてもランダムなタイミングで、形があやふやな状態で、頭に浮かびます。そのスパンは、3週間にいっぺんだったり、1日に3回だったりします。
 しかもそれは往往にして、お風呂に入ってゆっくりしているときだったり、駅まで歩いているときだったりします。もしくは心底楽しんでいる時とか。だからパッとその場で書けるような状況にない時が多い。自然、その思念は具体化されるタイミングを失って、忘れ去られることが大半となります。

 そういう意味で、毎日何かしら書くということがとても大切だと思っています。
 ジャグリングの練習でも毎日触れる、ということを、今は大事にしている。
 少なくとも毎日やる、と決めていれば、「思念が具体化されるタイミング」は一日一回は絶対あることになります。毎日何かしら道具に触れる、と決めていれば、道具に関する発見の機会は、少なくとも一日一回はある、ということになります。

 日々面白いことをするとか、書くとか、そういう志で限界にチャレンジする方がもっと立派だし、クリエイティブなのかもしれないし、そういうストイックな考え方もあっていいのかもしれません。
 でも少なくとも僕にはちょっとそういうことはできそうにありません。時間も限られているし。それよりは今、「飽きてもいいから、やめないで続ける」ということ自体にやりがいを見出そうとしています。
 誰かがいい反応をしてくれること、とか、自分が充足を感じること、というのは、二の次、三の次にしておく。そういうのばっかり気にしていると、途中で疲れちゃったり、「なんだか、やるせないや」というような気分になってしまうからです。

 それに、「1000日何かを続けた」人を追いかけるには、その人が「その日から1000日やる」ことでしか追いつけないよな、とも思うからです。