2019年4月22日月曜日

第377回 生まれてきたのがなんでかすらも俺は知らないんだから。

EJCに行くのってなんでか、改めて考えてみる。そもそもジャグリングのコンベンションに行くのってなんでなのか。
なんででしょうね?
なんで、と考え始めると、これはもう、わからない。行きたい、とどこかのタイミングで思ってそう決断したのだから、行きたいのは決まってる。それが正当に理由づけられることってあんまりない。行きたいから行く。

でも、行ってみると、全然想像と違うのがジャグリングのコンベンションである。
何回も海外のコンベンションやフェスティバルに参加してきたけど、やっぱりいまだに感じる。想像の中のコンベンションと、「その場にいるときの気分」って、似ても似つかないものである。

「その場にいるときの気分」は、すぐ忘れる。

あと2日間で中国のDali Flow Festivalというのに行く。やっぱり不安がいっぱいある。よる寒くないかなー、とか思う。(標高も高くて、まぁ寒いらしい)

だいたい事前にしていた心配って、現地に着いてしまうと全部忘れてるんだよな。事前にこういうことが起こるだろうと思っていても、全然違うことが起こる。

あとは、自分の頭では想像できないファクターがいっぱいある。「周りに大勢の人がいる」ということは自分が今頭の中で想像できるような範囲を超えて、予想外の事態をもたらす。

人間の予想って、本当にあてにならんな、と思う。予想なんかしないで、ただ「やる」ということを積み重ねていたいよな。一体何してるんだ、なんでこんなことしてるんだ、と思いながら、どんどんどんどん、わけのわからないことをしている人生がいいよな。

生まれてきたのがなんでかすらも俺は知らないんだから。


2019年4月21日日曜日

第376回 イアンまーちゃんヨコハマ大道芸。

5日くらい空白ができてしまいました。
ツイッターに連続ツイートしたものを転載しようと思っていたのだが、やはり一度書いた気になると、忘れてしまう。
こっちで再開します。
ですが、24日から中国に行くので、その間はまた、お休みします。
代わりに(というか)まとめて旅行記を書いて、なんらかの形で出版する予定です。

※※※

今日はもう5、6年ぐらい付き合いのある中国人ジャグラーのイアンくんが、横浜に遊びにきてくれた。
まず横浜駅で待ち合わせ。
いきなり、駅のすぐ近くでやっていた「ジャグリングの現在」というパフォーマンスを観に行き、イアンくん大興奮。
中身は、ながめくらしつというカンパニーを率いる目黒さんと、普段はエアリアルをやったりしている長谷川愛実さん、そしてハットジャグラーのヤハタくん、毎週一緒に練習しているクラブジャグラーのマサヒロくんが出ていた。ミュージシャンとして、いつも通りイーガルさんもいた。
とてもいい組み合わせでした。
以下ツイッターで書いた感想転載。

「ジャグリングの現在」プチ感想。 目黒さん率いるシリーズでは特に好きだったな。気候も最高だった。目黒さんとあいみさんの掛け合いもさらに観ていて気持ちがいいものになっていたし、ハットのヤハタさんも、いーガルさんの音楽と相まって滑らかでよかった。

まさひろも難しい技をホイホイ繋げていって、「さあ見せてやるぞ」というようなガチガチの緊張感がよい意味で全然なくて、「ジャグラーがジャグリングをしている」ということを素直に観られて気持ちがいい。 クラシックなジャグリングを観ている感じ。フランシス・ブランとかみたいな。

時間もちょっと短めだったんだろうか? それとも全体の構成が観やすかったから早く感じたのかな? 音楽のように受け入れられる、爽やかな水みたいな演目でした。


あとで思うと、20分以上はやっていたんですね。15分くらいの演目かな、と思ってしまっていた。それだけすっかり見入ってしまっていたのであった。

そこで会った、かつてのサークルの後輩、友人のまーちゃんと一緒に、次の演目を観に行く。途中で、ポケモンセンターに寄る。イアン、また興奮。ピカチュウのTシャツを買っていた。
横浜美術館前でやっていた、「シルクブラン」の演目をみる。
沢入国際サーカス学校の卒業生たちによる合同演目。
見応えあり。だだっ広い広場でのびのびとみんなやっていて、雰囲気がよかった。

そこでは、PM Jugglingダイゴさんの家族とイアンが会ったり。

そのまま大桟橋の近くの馴染みの店に行き、店員さんとおしゃべり。
イアンの両親も登場。
びっくりした。

夕飯を食べに、ラーメン屋へ。
イアン、また喜ぶ。
日本のラーメンが大好きなのであった。

半日だけだったが、やはり遠方から友人がきてくれるのは、また、たのしからずや。

※※※

最近、自分のジャグリングプロジェクトのことばっかり考えていた。
どうやらそうやって熱心になるだけが面白いことじゃないよな、という気がした。

まぁ、とにかく今日は幸せな気分である。


2019年4月16日火曜日

第375回 実際、別に目標なんていらないんじゃないかとか

 最近は、随分と考える時間があるようで、人生のことについてばかり考えている。ど直球ですね。
 でも本当は、人生、って要するにそういう風に「人生について考えている時間」なんかも人生で、今このキーボード打っている瞬間も人生で、全てが人生なわけである。

 その中で、自分で区切りをつけて、「こういう風になったらこれが自分にとっての達成である」と心して何かを進めることも大事かも知れないし、むしろ世の中で少なくとも「良い」とされるこというのはそっちだと思うのだけど、(つまり目標を持ってビジョンを達成せよ、ということですね、平たく言えば)そうじゃなくて、もうその日暮らし、というか、別に目標みたいなのには関心を払わない、という生き方だって、ひとしなみに切実で、「よい」生き方なんじゃないか、と思ったりもします。
 生きているといろんなステージがあって、その上、環境って色々に変化していくから、その変化に合わせるためには、一つの目標を定めるよりも、「その時々の自分を喜ばせてあげる」みたいな、気温と一緒に自分の色が変化する、みたいな、(変なたとえかな)そういう態度だって、別にいいじゃないか、と思ったりもします。

2019年4月15日月曜日

第374回 旅の効用についてなんだか思ったことがある。

 旅の効用についてなんだか思ったことがある。
 普段暮らしていると、悩んだり、行き詰まったり、鬱屈としたりする。それは、いろいろな理由があるけど、概ね自分の今いる文脈に縛られてしまっているからだ、と思う。
 要するに人生って「なんでもいい」はずなのだけど、それは、普段の生活の中で、ほとんど意識されないことである。それは、意識しないほうが、通常は生きやすいからだ。
 いちいち認識を新たにするのは、省エネルギーではない。でも、時には、その慣性が悪く働くこともあると思う。「自分はなんでこんな環境にいなきゃならないんだろう」と思うとしたら、それはもうすでに、何か自分で自分に縛りをかけている状態であるような気がする。
 実際、「なんでもいい」のだけど、(なきゃいけないことなんて人生にはないと思うのだ。あるとしたら、それは自分が決めることかもしれない)それを一旦保留して、「これは自分がやるべきことだ」ということにしてしまう、のが、「普段」だから、その条件を一旦解かないといけない。
 旅をすることには、その「普段」を極めて楽な形でリセットする効用があるように思う。それは、実際に違うことをするから、である。

 僕は旅が好きだし、旅、と普段を繰り返して、緩めたり、縛ったり、で生きていくのが良いのかもしれないと思う。

2019年4月14日日曜日

第373回 「あんなにもたくさんの人が運転免許の更新をする」

 昨年末に免許の更新に行った時に、たくさんの人がいるので驚きました。免許を取得した時も同じことで驚いた記憶がある。
 もちろん、そこらへんを走っている車の数のことを考えたら、一応事実としては認めざるを得ないところなのだろう。それでもなんだか、自分が生身で感じている実感とは随分数が食い違っているなあ、と思った。
 同じように、昨日たん君と公園に行ったら、たくさんの子供達と、その親が一緒に遊んでいた。それを見た時、僕はまだ行っていない中国のことをふと考えた。家の近所の公園でさえ、今までほとんど触れることのなかったような人間の層と出会うことになるのだな、と思ったからだ。

 まだ見ぬ中国っていう国の中には、13.8億人という人数がいるという。するとこれはもう、その、つまり、僕が意識の中でこの世界にいると思っている人間の数とは全く異なる大きさなんだろうな、という予感がした。
 実際には、その「ホントウの数」というのを知覚することは未来永劫ない。わかったつもりでいても、あくまで予感の形でしか、つまり結局自分の想像でしかない。だけど、「世の中には自分の知っているものとは随分違うものが『実際に』あるんだねえ」という生々しい実感は、これは非常にいいもんです。
 そういう生々しい実感を求めて旅をしているところがあるなぁ、とも思いました。
「へー、『実際』にあるんだ」とね、これです。
 この実感のために、あっちゃこっちゃ行ってるんだな、と思ったのです。

2019年4月13日土曜日

第372回 紙の本

ずっと待っていた、トム・ウォールさんの本が届きました。
やっぱり、本が紙で読めるのは、嬉しいですね。

PONTEで、販売しています。


2019年4月12日金曜日

第371回 ぼーっとしてリリースしてあげる

 「考える」というのは、運動と全く同じであるような気がする。ずっと同じことを考えていると、脳みその一部分だけ使われて疲れるような気がする。だから、一時間に10分ぐらい、別の考えをしてあげたり、全く何も考えないで、ぼーっとしてリリースしてあげるといいんじゃないかと思う。
それでもダメな時は、やっぱり、そのことについて考えるのを、その日はやめる、とか、半日やめる、とか工夫しないとダメだなぁ、と思った。

2019年4月11日木曜日

第370回 「これからは、旅のことについて書こうと思う。」

「旅するジャグラー」としてしばらく生きてみよう、と思いました。そんなこと言っても、君ずっと旅してるじゃないか、と思われる方もいるかもしれませんが。

「旅とジャグリング」というのがジャグリングをやっている理由なのだということに思い至った。ジャグリングがきっかけで、今までの経験が成り立っているんだなと思いました。「ジャグリングがなかったら今のような自分ではなかった」の大元を辿ると、全てが旅に結びついています

僕の日課に「ジャグリングの郵便箱」なんてついているのも、やっぱり旅先から投函するようなイメージがあるからです。 旅先で何かに出会うことで、僕は鮮烈に生きているような心地がします。そのことを伝えたいなぁ、と思っているのでした。しばらくそのことに自覚的になって伝えてみたいと、おもう。

2019年4月10日水曜日

第369回 周りにできる人がいると

2000年に発行された『ボールジャグリング入門』では、「5ボールはジャグラーの試金石」と書かれています。実際、90年代あたりは、(僕はジャグリングをやっていなかったので知らないのだが)きっと5ボールカスケードができるジャグラーなんてそれほど見かけることもなかっただろう、と思う。

もちろん「できる人」はたくさんいただろうし、7ボール、9ボールだって、ある程度の人がやっていたのだろう、とは想像できる。それにしても、今のジャグリングの世界のように、5ボールができてもジャグラーからは驚かれない、というふうではなかっただろう。

僕には、これが「不思議」である。人間の身体的な能力で言ったら、生物としては全然変わっていないはずなのに、ジャグリングのシーンを全体で見たとき、明らかにレベルが上がっている。この要因はどこにあるのか。

やはりこれは、「周りにいい見本が山ほどある」ということが関係しているに違いない。インターネットはもちろんその最たるもので、あとはサークルや練習会で実際に人がやっているのを目にする、ということもある。

そこで思うのは、人間は、精神的に「できる」と思えると、実際にできちゃうんだよな、ということである。もし周りに5ボールなんかやっている人がいなくて、イチから自分でやらねばならないとしたら、(実際30年以上前なんかは、そういう状況の方が普通だったろう)諦めずに練習を続けるのは難しい。

それが、周りの人がやすやすとやっているのを見るだけで、「そうか、これは、練習さえすれば誰でもできるし、そんなに難しいことでもないのかもしれない」と思って、くじけそうになった時も、なんだかんだでモチベーションを保つことができる。

つまり何が言いたいのかというと、今自分が何かに取り組んでいて、「これは難しいし、全然できないかもしれない」と思うようなことも、実は、周りにそれをやすやすと実現している人たちがいたら、それだけで、簡単なものに見えてしまう、ということなのである。きっと、どんなことも。

だから先例がないようなことも、「もしこれを、周りの人10人がやすやすとやっているようなことだったら」と想像すると、気持ちのハードルが下がって、挑戦し、失敗し、また諦めずに続ける、ということが少し楽になるような気がする。

2019年4月9日火曜日

第368回 「ジャグリングを教えること」について最近考えていること。


自分が通っているコワーキングスペースの方数名に、今ジャグリングを教えている。他にも、高校の同級生にも、縁あってジャグリングを教えている。初めから教えていると、特に最初にカスケードを覚えた時、すごく集中して練習して、またすごく喜んでくれる場合が多い。

この喜びを目にすると、ああ、ジャグリングを教えるのって楽しいな、と思う。
一方で、ここから先、さらにこういうワクワクを伝えるにはどういうことが必要かな、とおもう。

僕自身は、「旅をする」ということをキーワードに、ジャグリングを楽しんできたように思う。
もちろん最初の12年は、とにかく新しい技を覚えるのが楽しくて仕方がなく、それで夢中になってきたわけだが、そういう楽しみ、って上達を一番の目標とする人を除いて、だんだんと薄れていくものである。

そこへきて、さらにもう一歩進んで、なぜ今日も自分はジャグリングをするのか、何か理由があるといい。そうしたら、ただジャグリングを始め、初めの1年ぐらい楽しくやってだんだんフェードアウト、ではなく(もちろんそれでも一向に構わない)もう少し続けられるかもしれない。

僕はとにかく、今感じている、「人と出会い、つながりを作れるからこそのジャグリング」を意識して大事にしていきたい。なぜそれがジャグリングじゃなきゃいけないのか? と問われたら、それは「ジャグリングって、ちょうどいいから」なのだ、と答える。それはどういうことか。

「発見係数」(仮)という考え方を僕はしている。ジャグリングは、発見係数が高いのである。どこか外国に行くにしても、人と会うにしても、そこにジャグリングという要素があると、出会いがもたらす印象の大きさが、かなり大きくなるのである。

「ジャグリング」は、普遍性と、奇異性が程よい具合に入り混じっていると思うのだ。つまり、その場にあるものを使ってその場で見せられるし、言葉もいらないという性質(普遍性)がある上で、サッカーや野球とは違って、それほど一般的なものではない、という性質(奇異性)のバランスがちょうどよい。

だから僕としては「ジャグリングを持って旅にでよう」ということなのである。そうすると、たとえば見知らぬ人に興味を持ってもらうことがぐっと楽だし、外国語だって上達するかもしれないし、みんなが普通じゃ見られないような風景を見られたりする、という相乗効果があるのだ、ということなのである。

そんなことが僕にとってはジャグリングの「技の次の楽しみ」。それを、僕はなるべく丁寧にいろんな手段を使って今から何年もかけて伝えたい。もちろん「旅」は僕個人にとっての楽しみだからこれはあくまで一例であって、皆さんはまた自分なりの「ジャグリングと付き合うわけ」を探してね、であるが。

2019年4月8日月曜日

第367回 再びここの処遇について考える。

ここの処遇について考える。
毎日書いて、それでなんとも何も起こらないのはやっぱり辛い。
これは、自分のやり方が問題である、ということは重々承知している。
貴重な青春の時間を使うので、(ふふふ)やっぱり毎日やっていて、その執筆自体が少しキツくても、その後にとても爽快なのがいいよな。
仕事にしたいよ。このことを。

だから、「毎日書くこと」そのものが目的なのではなく、きちんと理由があって、毎日何か書いて、そしてそれが大勢の人に届いてくれたら一番嬉しいよな、と思う。
それには、まず毎日強制的にでも書いて、考えるべきこと、を見つけなければいけない。

※ ※ ※

でもやはり僕は茂木(健一郎)さんに憧れているので、とにかく、どんな反応があるだとか、なんだとか関係なく、取り憑かれたように文章を書く、というのもいいなあ、と思ってはいるのである。

※ ※ ※

今日はだらだら起きた。昼近かったんじゃないか。
昨日の夜、メルマガを書くために随分夜更かしをしたせいである。
家でPONTEのことをずーっと考え、時間になったらアルバイトに向かう。
僕は今、基本的にアルバイトと、その他、文字起こしや、翻訳や、ジャグリング教室や、PM Jugglingのお手伝いといった、ちまちましたお仕事(のようなもの)を見つけては、それで日銭を稼いでいる。
別にそれがいやだってんじゃないが、やっぱりなんか、もっと、どかーん、と自分ならではの人に役に立つことがしたいよな、と思う。

ああ、そして今の時点で、まだフランス語の1分ビデオを撮ってないじゃあ、ないか。
やれやれ。
でも、これも、きちんと時間をとって、とにかく「意味のある」状態に、少しでも考え抜いて近づける、というのが、正しい姿勢だよね。

2019年4月7日日曜日

第366回 徳島から横浜に



徳島から、横浜に帰ってきた。
TSJF、楽しいフェスティバルでした。

詳しくは、明日発行のメルマガで書く予定。
まだの方は是非ご登録を。

http://jugglingponte.com/e-zine/

2019年4月6日土曜日

第365回 徳島に行くバスで思っていること

現在、徳島に向かう高速バスの中でこれを書いている。
徳島では、このフェスティバルに参加する。
朝、6時半ごろに起きて、のそのそと駅に向かう。

今取り組んでいる新しいこと、どういう風に進めていこうか、と思いながら、バスに乗っている。本当は、「これだ!」ということを、一つ、すっと伸びる線のように淡々と進めていきたいのだ。
でも、アイデアを20個出して、そのうち1個がよければいいかな、という気もする。
そういう風にしてしか「これだ!」は見つからないような気もしている。
そして、それを磨いていけばいいかもしれない。

2019年4月5日金曜日

第364回 京都

京都。

夜行バスで隣の人がやたら幅をとっていたので、うまく寝られず。待合所で耐えきれずぐうぐう2時間ぐらい寝る。スッキリ。起きたら、待合所でEJCの航空券を購入。そろそろ頃合い。ベトナム航空で往復、20日間滞在の予定だ。決まってしまえば、よし、旅程を立ててやる、という方向に頭が向かう。
京都にいるが、別に京都でやることがあるのでもない。明日徳島に行くのが主目的。ひとまず駅ナカの喫茶店CIAO PRESSOに入った。京都には夜行でもう10回ぐらい来ているが、初めて。電源もあるし、エスプレッソとパンのセットが300円だし、(ポテサラもついてくるし)これから夜行明けはここのお世話になりそう。

しかし変な朝だった。
エクスペディアでチケットを取った瞬間、待合所のテレビでエクスペディアの広告が流れ始める。
ベトナム航空でチケットを取った矢先に、Vietnamと書かれたキャップをかぶったおじさん二人に会う。今、後ろでは、イタリア人の夫婦が、なんだか知らないがイタリア語のYouTubeをみてる。

「別にやることないんだけどいつもと違うところにいる」というのは、身体と心が生き生きとする。
なんだろうね?
人間の本能にすごく即している気がする。
気分の最低ラインが58cmくらい上がる、というような感じ。
少し浮き足立ちながら「いつものことをする」感じ。

カフェを出たら、河原町の方へ。無印に行ってしまう。
駅からここまで歩く中で、写真を撮ってみたり。
その後伏見稲荷の方へ移動し、友人と会う。
駅まで歩く。
友人と別れて、三条の方へ戻る。
また、無印に行く。
みみずくんと落ち合う。
みみずくんは相変わらず。一緒にラーメンを食べて(唐揚げがすごい量だった)河原で楽しく缶ビールを飲んで、寝る。

2019年4月2日火曜日

第361回 横尾忠則さんのサイトを見ていて思ったこと

画家、横尾忠則さんのウェブサイトには、淡々と彼の日々の雑感が残されている。
別に誰のためというのでもなく、ただ淡々と残されている。
読む側はどういうことを思って読むんだろう。
つい昔の日付なんかを開いて読んでしまう僕の心の中をのぞいてみる。

それはおそらく、「その人を立体的に理解したい」という欲の現れなのだろう、と思う。

僕のことを立体的に理解したいだなんて思っている人はいないのはわかっているが、少なくとも自分にとってこうやって日々のことが文章にされていて、一ヶ月に一回くらい前の物を読み返して、自分の来し方を少しだけ厚みを持って振り返ることができるのは、やっぱり嬉しいものである。
できる限り、ここは細々と長く続けていきたいものである。

※ ※ ※ 

PONTEのことを考えている。
なんだか、サイトがぐちゃぐちゃになっていて申し訳ない。
僕は全然なんというか、プログラミングだとかそういう方面に疎いので、なんでもてきとーにやってしまって、うまく動かなかったりすることが日常茶飯事なのである。
うーむ、早くなんとかしなきゃ。

※ ※ ※
なるべく、ここを続けることが自分にとって本当に意味のあることなんだ、と思えるようにしないと、やっぱり、続けていて、ちっとも楽しくないから、時々こうやって日々の所感や日記のようなものを書くことを納得しないといけない。

2019年4月1日月曜日

第360回 決意の質とか

「よーしこうしてやるぞ」とよく決意をするのだけど、まぁ、その決意が実現することって、あんまりないですよね。
その時点ですでに行動していれば、それはいいのですけど、よーしこうしてやるぞ、から、5分たち、10分たち、1時間経つ間に、その決意なんかどこかに行ってしまいます。

できれば、決意なんてしないで、ただ淡々と何かをできれば、それが一番いいのだろうな、と思う。