2018年10月31日水曜日

第244回 インターネットがいいことを教えてくれた日でした。


今日は昼から、しばらくジャグリングに関わることを考えていました。
インターネットも使って、考えていました。
会社や、個人が、どういう考えのもとで、つまりどういう「おおもとの理念」で、次の行動を決定しているのか、ということが知りたくて、いくつかの会社や個人の書くことをよく読んで、勉強していました。

インターネットは、下手に扱うと、いやな気持ちになることも往往にして多い場所だけれど、自分がきちんと意思を持って、何かを学ぼうと思って節度を持って接すると、いいことを教えてくれるんだな、と感謝したくなる。

2018年10月30日火曜日

第243回 これを観て僕は、ちょっと、打ちのめされてしまう。



これを観て僕は、ちょっと、打ちのめされてしまう。
ジャグリングの世界にばっかり縛られていた自分のことを、思ってしまう。
「自分の手で何かをつくる」ということが、ジャグリングの世界ではおろそかにされてきたんじゃないか、とか僕は声高に言うけれど、俯瞰して「世界」に目を配れば、それは当然のように、星の数ほどの人たちによって、脈々と続けられてきたことなんだ、と気づかされる。
そして、「向こう側」からジャグリングにアプローチされたら、あっという間に、「ジャグラー」としての自分が考えることなんか、圧倒されてしまうのだ。


同じように、これを観ても、「ああ、自分はなんて縛られていたんだろう」と思う。

縛られている、ということに自覚的ではあるつもりだったが、(それで、ちょっと調子に乗っちゃったりしているのだ)「どれぐらい自分が縛られているか」ということの認識が至極甘々だったんだ、と思うのだ。



昨日発表された、カンパニー「頭と口」の渡邉尚さんによる、新作動画、「NAOKO」。

公式Twitter @ATAMA_TO_KUCHI より引用

「NAOKO」 自分の身体は何%女性なんだろう? 最近仕事で女装をする機会がありまして、それから考えている。 周りを観ても100%人間とか100%男とか100%女の人は存在せず、みんな少しずつ混じっている。
「ジャグリングがどこまでカバーできるか」ということを考えぬいた時に、一見ジャグリングとは関係なさそうなものが立ち現れてくるのが、僕としては、面白いことだよな、と思う。
というよりも、「関係ないと思っていたこと」が、「ジャグリングを究めている人によって、表現の一部に組み込まれる」ということに、僕は鳥肌が立ってしまう。

「やれやれ」と天井に顔を向けて、全部投げ出したくなる気分だけれども、ここからが正念場だ、と思わねばなるまい。
誰だって、生まれた時は何も知らないのだし、前に進む、という意欲は、自分がどれだけ後ろにいるかを知っているから、生まれるのだ。

ひとまず今日は、とぼとぼ、浅草まで、Fuji君と一緒に、革を探しに行く。

2018年10月29日月曜日

第242回 自分の経験してきたことがそのまま財産になる、というのは

今日も毎月恒例のジャグリング教室。
ふだんお世話になっているコワーキングスペースのみなさん対象に、やった。
2時間だけだけど。
ボールジャグリングの基本から、ディアボロまで、なんでもやる。
最後は、サイモンセッズなんかしちゃったりして。

前に地区センターで、アドリブで「ジャグリングとは何か」という演技をした時も思った。
自分の経験してきたことがそのまま財産になる、というのは、こういう時だな、と思う。
本当に嬉しいものです。

最近、PM Jugglingという、小さなジャグリングメーカーと一緒に仕事をしている。
翻訳や、展開の仕方をともに考えている。
これなんかは、
「ジャグラーの知り合いが多い」
「英語を好きでいろいろ使って来た」
というような自分にとっての個人的な経験が、他の役に立つように流用される、ということである。

で、ここで大事なのは、どんなことが「自分だけの財産」なのか、自分では結構気づきづらいということだと思う。
海外にジャグラーの知り合いが多い、ということもその最たるもので、自分の中では、それが誰かの役に立つだなんて考えづらいものである。
でも、ある時ふと、他の人と話していて、「そうか、これは、自分が経験の中で育んで来た、貴重な財産なんだ」と気づく時がある。

「好きなこと」ほど、自分が現在やっている「仕事」とかけはなれていることって多くて、そういうことが「仕事」になるとはあんまり想像できない。
でもささいな自分の中の楽しみだと思ってやっていたようなことが、案外、はたからみると、「それだよ、それ」と、需要があるものだったりする。
ジャグリングだって、そういうところがある。
別に何かの役に立てようだなんて思いながらは、練習していない。
でも、ジャグリングって面白そうだな、と思っている人にとっては、ジャグリングができる、ということは、すでに財産なのだ。

自分の経験していることを、そのまま財産に転換するのは、「だから」大変だ。
まず足元を見ないといけないからだ。
気づかないといけないからだ。
そしてその自分が今まで「自分のために」育んで来たことの、工夫して線路を切り替えることが必要だ。
でも、一回線路を切り替えてみると、思った以上に乗客が乗るんだなぁ、とびっくりしたりする。

まぁでも多くの場合、「運良く」それが生かされるんだろうな、と思ったりする。

2018年10月28日日曜日

第241回 ベトナムのサーカス Lune Production 『The Mist』

今日は、ベトナムから来たサーカス、Lune Production の、『The Mist』を観に行きました。

始まる前の会場は、まるでシルク・ドゥ・ソレイユや、ディズニーランドのアトラクションのような雰囲気。(きっと影響を受けていると思う)
舞台装置、衣装は、ベトナムの農民生活をモチーフにしたもの。
そして稲穂がたくさん出てくる。
そう、90分間の一貫したテーマが、「コメ」なのだ。
ダンスとアクロバット、そして生演奏の音楽。
時折ちょっとした芝居が入る。

とくに後半は、畳み掛けるようにガシガシと踊る。
観客と一体になって、バシンバシンとシンプルなパーカッションのリズムを奏でる。
入り口で、くつべら二本をくっつけたようなバチを配られているので、それを一緒になって叩く。

別に何を言われるでもなく、観客は自然と演者に乗せられて、それをペケペケ叩きます。
なんだかおかしくて、一人でバチを叩きながら笑ってしまった。

バチを持たされただけで、何も言われなくてもぺちぺち鳴らしちゃう、というのは、とっても愉快じゃーないですか?
子供も大人も一緒で、しかもそのパートが終わった後、当然のような顔して、そのバチでチャッチャッチャッチャ、と拍手をするのだ。

その場の暗黙のルールを、誰にも言われず、その場にいる全員が共有した時、というのはとても気持ちがいいよな。
それが、別に強制されたものではなく、なんとなく、自然にやってしまう、というのが、一番いい。

終演後も演者達が外で「へ〜〜い」とか言いながら、わいわい楽しそうにしていて、とてもいい気分だった。

※ ※ ※

自国の「伝統」を演技に盛り込む、ということは、白々しくなっちゃったり、嘘っぽく見えるリスクをともなう。
この公演に関しては、僕は、踊っている時でも、演技をしている時でもなく、彼らがベトナム語で会話をしている時に、一番、「異国」、つまり彼らにとっての「自国」を感じた。
「自分に関係のある文化」って、一番は「ことば」なのかもしれない、と思った。

日本なら、着物でも、神社でも、ゲイシャでも、フジヤマでも、和食でもなく。
ことば、っていうのが。
「ことば」こそが、(それは、でもある人にとっては日本語ではないかもしれないし、それにしても、自分が喋る言語、ということが)自分が自然に背負って来た、そして実際的な経験とともに関わって来た大きな文化じゃないか、と思った。

実を言うと、観ながら、一番心を動かされたのは、アクロバットでも照明演出でも衣装でもなく、ベトナム語の響きだったのだ。
演技中、特に後半、演者たちはわりに自然体でベトナム語を喋りまくる。
その時のベトナム語の響きがたまらなくよくて、感動してしまった。
ああ、ベトナム語習いたいなあ、と思った。

そしてこのことは、今日読み終わった、『台湾生まれ 日本語育ち』というこのとても面白い本とも、実はかなり関係がある。

少し紛らわしい看板。AO SHOW は、今回KAATではやらない。
別の小田原や横須賀、大和の劇場でやる。


2018年10月27日土曜日

第240回 つかれて何もしたくないときと書きたくても何も書けなそうなとき

つかれて何もしたくない、という気分があるよね。
そういうときに、それでも何かをする、しなければならないから。
そういうことがある。

電車で目的の駅に着いたとき、どんなに眠くても、人はおきてふらふらと出て行き、家まで向かう。

何か書かないといけないのだけど、何も書けない、ということも、ある。(しょっちゅうある)このことは折に触れて書いてきた。

そういうときにいつも感じるのは、書き始めると書ける、ということである。

やり始める前は、まさか達成されるとも思っていなかったようなことを達成する、というのは、人生において常に起きることであるように思う。
「予定」というのは、あくまで「スタートラインから走る」ことのために、便宜的に設定しておく方がいいもの、というだけであって、実際には、「予定通りに行くこと」はあまり本質的ではないのかもしれない、と思う。

予定をたてなきゃいけない、と思い込めば思うほど、全然始められない、ということって、多いような気がする。

2018年10月26日金曜日

第239回 一度「野良英語」から派生する世界に触れると (「ジャグラーと話すための外国語」シリーズ)

特にいま中学生、高校生の方に言いたいことがある。
授業でやる座学の「英語」と、かたや実際に使うときの”English”って、「真面目な体育の授業」と「友達とやるドロケイ」ぐらい違う感じがします。 次に何が来るか分からない楽しさ、ルールは簡単にして、かつあくまで自分たちのできる範囲で遊ぶ感じ。正確にできてるか、とかはあまり気にしない感じ。


もちろんうまいに越したことないんですが、「やりながら上手くなる」のが普通だから、「仲間に入れてほしいな」と思って、最初は敷居が高いかもしれないけど、中に入っちゃえば、あとは割に足りないことは自然と補われていきます。
もちろん、授業で少なくとも平等に触れる機会があるというのは素敵なことです。
先生だってきっとすごく必至で教えておられると思います。 授業は「ムダだ」なんて言いません。 しかし「野良英語」を知らずにいるのは、なんか、もったいないよな、とおもいます。
「EJCに行きたくて英語を頑張ってるんです」という人を見ると、すごく嬉しい。(昨日そういう高校生の方が話しかけてくれました)
自分で英語を使うための目標を見つけて一生懸命やるのはとても楽しいし、一度ループに入ってしまえば、すごく上達します。「TOEIC対策」なんかする必要なくなります。
受験とか就職とか、いろんな理由で「正確な英語を」厳しく身につけなきゃいけない、必死で試験対策をしている、という人もいるでしょう。
そういう方に、「さあ今すぐコミュニケーションしよう」みたいに言うつもりはないです。 僕だって中、高の頃は、英語を実際に使ったりはほとんどしなかったし。

しかし一度「野良英語」から派生する世界に触れると、「ああ、こういう世界があるんだったら、もっとちゃんと勉強したな」と、今になって思う。
だから今英語が退屈で、苦痛でしょうがない、という人は特に、英語にも「ドロケイ」みたいな適当で楽しい世界もあるんだ、と片隅で覚えておいてほしい。

第238回 日本人が英語について語ることを、逆の立場で考えてみる(「ジャグラーと話すための外国語」シリーズ)

日本について、他の国ではどう語られているか? というのは最近気になることである。
 英語でそれを収集するのはまず最初にできることだとは思うんだけど、僕としては、他の外国語で、その国の母国語で、友達同士の会話レベルで、どう語られているのか、そういうことが知りたい。 
僕が日本語で普段語るようなことは、僕が外国語で語ることとは全然違う、という実感から言っている。
 だったら、みんなも、結構「本音」や「自然な感想」とは違うこと言ってるんじゃないの、と思うのだ。 
そう思って自分の書いてることなんかを見ても、「英語がどうこう」みたいなことを、英語母語話者が見たら、きっとなんだか違和感を感じることってたくさんあるのだろうな、と思う。 
他国で日本語を勉強している人がいるとする。
「日本語試験900点越えの塾!」みたいな所で勉強しているとする。
 興味があるのはすごく嬉しい反面、もし彼らが点数だけ見てて、実際日本語では何を話されるか、とか文化のことを全く度外視していたら、僕だったら、なんか、悲しくなっちゃうだろうな。 
ただ英語の場合は、リンガ・フランカ(当座、実際的な理由で選ばれて使われる共通語)としての役割があるから、実用で、あくまで意思疎通のために学ぶのだ、という立場はあるだろう。 
でも、やっぱり、逆の立場だったら、なんか悲しくなるな、という個人的な想いは否定できない。
 学習の順序としても、「面白くて、知りたいことがあるから、その言葉に慣れ親しんでいく」という順序の方が、自然で無理がないだろうなとおもう。

2018年10月24日水曜日

第237回 英語で原稿を書くことについて

先日行ってきた淡路島でのサーカスイベントに関する英語の記事を、いったん書き終わった。
まだ微調整が残っているけど、かなり気合いを入れたので、脱稿して珍しく非常にすがすがしい。
書いていて、しかし、昔はこうやって、週一くらいで、うんうん唸って英語のレポートを書いていたなぁ、と思った。

大学にいる間の4年間くらいやってたはずなんだが、すっかりそのことを忘れていたことに、自分でも驚く。

そして、なんだか、もっと英語で書きたくなってきた。

英語で発信する、敷居がひとつ下がったような気がする。

2018年10月23日火曜日

第236回 それはつまり、”Ikigaiということでもあるのかもしれない。

昨日も桜木町へ。
ヨコハピの(http://happyturn.yokohama)Fuji君とアイデアを出し合った。
こういう「決意表明」みたいなのは、ほんとうは書きたくないんだけれど、
ジャグリングでまだされていないことを、本気でしたい、とおもっている。
それはヨコハピの活動だけにとどまらず、ジャグリング雑誌のPONTEの方針もそうだし、
昨日言っていたような、コンベンションを作りたい、という話もそう。

今月頭のあたりから、もはや自分がどこにいるんだか分からないような
めまぐるしい移動を繰り返している。
電車の中でも、よく書きものだか何かをしている。
(この文章も京浜東北線の車内で書いている。)
時々は、気分に合わせて本を読んだり、フランス語を頭の中で唱えたり、聴いたりも、している。
ここんとこは、モギケンのIkigaiの本を読んでいる。


英語でどんなふうに書いているのか知りたかったので。

今始めたことがいつか実を結ぶといいな、と思うし、
一方で、「実を結ぶといいな」と思って、
必死で納得できるやり方や継続する方法について
思いを馳せながらいろいろやっている間って、
すでにそれなりに幸せだな、と思う。

それはつまり、”Ikigaiということでもあるのかもしれない。





※PONTE2018年秋号(最新号)発売中です。ヨーロッパのジャグリングフェスティバルについてたくさん書いています。ぜひお手元に!

2018年10月22日月曜日

第235回 野外イベントって、いいですよね。野外ジャグリングイベント、も、あったらいいですよね。

昨日は、めまぐるしく外を回った日。

午後1時半くらいに、二俣川で開催されていた、「相鉄ロックオンミュージック」というイベントを観に行った。
Chu-Zという、最近話題の「ジャグリンドル(ジャグリング+アイドル)」が所属するアイドルグループと、RAB(リアルアキバボーイズ)という「オタク」をテーマにしたブレイクダンスのグループが出ていたので、チェックしに行った。

開催されていたのは、駅から歩いて20分ぐらいのところの、こども自然公園、という大きな公園。
ぐるっと回ってみたのですが、とにかくでかい。
昔、こういう公園でザリガニ釣りをしに、家族で出かけたのを思い出しました。
実際、誘ってくれたヨコハピのけんと君はここが地元で、ザリガニも釣ったことがある、という。
青空の似合う公園。
おとといと違って天気もよくて、中には芝生に寝転がる人もいる。犬なんかもたくさんいる。
屋台もたくさん出ていて、入場は無料。
ふらっと公園に遊びに行く、という気分で、たくさんの音楽を聴いたり、ショーを見ることができる。
公募で選ばれたバンドのライブや、ゲストとして呼ばれたダンサー、ミュージシャンたちのショーがあります。

野外イベントって、いいですよね。
しかも無料で入れる、というところもいい。

こういう感じで、ふらっと来られる、ジャグリングに関するイベントがあったらいいよなー、とつくづく思います。
…、と、思うと、ヨーロッパで開かれているジャグリングコンベンション、ってまさにそれで、(有料なことが多いけど)だから好きなんだな、と改めて思う。

まぁ、ジャグリングだけじゃなくてもいいんだ。
こういうイベントに、ジャグリングがくっつくのでも、いい。
ジャグラーじゃない人のためにジャグリングをやっている、というのがいいよな。

けど、井の頭公園で毎月やっている「井の頭ポイ」や、おととい代々木公園でやっていた、これもほぼ毎月のイベント、「ピザ回し練習会」なんかも、なんか、スピリットは似ているんだよな。(行きたかったな。行けなかった。最近全然行けていない。PM Jugglingの板津さんと、ピザ回しすとのそいそいが一緒にやっていて、とても雰囲気のいいイベントなのです)

じゃあ僕がやるか、って?

さあ、どうしようか。


※PONTE2018年秋号(最新号)発売中です。ヨーロッパのジャグリングフェスティバルについてたくさん書いています。ぜひお手元に!

2018年10月21日日曜日

第234回 僕が「ジャグリングをやっているからできること」

今日は普段お世話になっている地区センターに行って、パフォーマンスをしました。
「ジャグリングとはなにか」というようなことを、ただただ喋りながらやる、ということをした。

ジャグリングをやっているんです、というと、「大道芸人、ということですか?」と聞かれることが多いです。
別に全然構わないんだけど、その「違い」(って言っていいのかもよく分からないけど)について話したら、面白いんじゃないか、と思った。

で、そういうことをして、実際わりに好評だった。

こういうのって、僕が「ジャグリングをやっているからできること」だよな、と、あとから思った。

ジャグラーとしてできることは、ジャグリングを、一定のフォーマットで見せるということだけではない。
30分何かやってください、と言われたので、とにかく、何か、ジャグリングに関係したことを30分やるしかないよな、と覚悟したら、こういうようなものが生まれた。

30分も一人でジャグリングパフォーマンスなんかしたことなかったですからね。

でも、30分ぐらい、冗談言い続けるのとかは、できる。

自分が好きで、かつ得意なことを、自然にジャグリングに近づけると、こういうこともできるのか、そうか、と、何か肩の荷が少し降りて、そして視界が少しひらけたような気分だった。


※PONTE2018年秋号(最新号)発売中です。ヨーロッパのジャグリングフェスティバルについてたくさん書いています。ぜひお手元に!

2018年10月20日土曜日

第233回 僕がフランス語を話したいわけ 〜冗談飛ばしあったりしたいんだよな〜

ニノというディアボロプレイヤーに、先月頭に台湾で会った。
といってもニノと僕の付き合いもそれなりに長くて、3年前から知り合ってはいたし、(同じディアボロバトルで戦った)昨年のEJCでもいっしょにディアボロして遊んだ。

ニノはフランス人で、フランス人にしては、英語がかなりうまい。(いや、失礼なこと言ってますが、傾向として、フランスの人は、他のヨーロッパの人と比べて、英語に難がある、ということが、僕の経験と照らすと、ちょっと多い。まぁ、いろんな傾向が、あるよな)

ニノとは英語で問題なく話せるんだけど、ふとこちらが拙いフランス語で話しかけたら、ぱっと顔が輝いて、「フランス語喋れるのかい」と聞いてきた。
まぁ、勉強はしているんだ、と言うと、「いつかフランス語で話したいな」と目を輝かせていた。
僕としては、ああ、これは、頑張りたいなあ、と思った。

今年久々にあったエティエンも、同じことを言ってきた。
わはは、と笑って、「君がフランス語喋ってんのすごい面白いな、これからはフランス語で話そう」と言った。
やっぱりこういうことも、僕のフランス語学習を後押しする。
そうだよな、やっぱり自分の言葉で話しかけてくれるのって嬉しいよな。

検定試験とか、僕は個人的には好きだし、遊び感覚でやりたいなと思うことはあるけど、「TOEIC対策」みたいな、圧迫されるモチベーションで「勉強」するのって、あまり面白くないよなぁ、と思う。
フランス語の検定試験とか、受けようかなー、と思っちゃいるけど、まぁ、ペースメーカーですよね。

いろんな動機があるだろうから何でもいいんだけど、僕はやっぱり、ジャグリングしていることで人と繋がったように、外国語やることで人と繋がりたいなあとは思う。

というわけで今日もフランス語の練習、やりましょう。やりましょう。
ニノやエティエンと、冗談飛ばせる日を楽しみに。

2018年10月19日金曜日

第232回 狂ったようにやることについて(「ジャグラーと話すための外国語」シリーズ)

5ボールをできるようになった時のことを思い出している。

もうその時は、とにかく5個のボールを投げる、ということしか見えていなかった。
その、どう考えても僕なんかにはできると思っていなかったようなことが、少しずつ3ボールの技を覚えたり、4ボールの技を覚えたり、毎日やっているうちに「現実的な線」になってきて、やがて、「もうすぐできる」になっていく感じ。

しかも別に「毎日やらなきゃだめだ!」という義務感で、というよりは、勝手に毎日のように少しはやっていたように思う。

できるようになるかもしれない、という、その角に見えているところに向かってひたすらやっていた。

もはや、その時は狂ったようにやっていた。

外国語を勉強するっていうのは、さらっと言うけれども、すご道のりの長いことだ。
「英語くらいは喋りたい」というけれども、英語くらい、って、英語ひとつ喋るのだって、すごく時間のかかることなのだ。

でもその時間のかかることに対して、どう乗り切るかと行ったら、やっぱり、楽しんで狂ったようにやるしかないだろうな、と思っている。

2018年10月18日木曜日

第231回 改めて、フランス語をどの辺りからやっていくのがいいか考えている。(「ジャグラーと話すための外国語」シリーズ)

改めて、フランス語をどの辺りからやっていくのがいいか考えている。
「最終的にフランス語をどう使うのか」
考えるアプローチと、
「わくわくするかどうか」でやるかどうか決めるという両方を考えるのが大事だろう。

ジャグリングのアナロジーで考えている。
入門書みたいなものに書いてあることを一通りできるようにすると、助かる。
でも別に全部できなくてもいい。
できそうなやつ、やりたいやつだけやる。

上手くなりたいのは、ワクワクすることがあるからだ。
だから受動的に「ワクワクすること」も常に補給する。

だから、差し当たりの最終形を志向しつつ、「フロー状態で楽しく基礎をやる」というのが一番いいよね。
どっちかになっちゃうんじゃなくて、頭に置きつつ、やる時は完全に切り離してやる。

「なにかを心配しながら」単純記憶作業をやるというのはかなり難しいのだ。

2018年10月17日水曜日

第230回 昨日の外国語ツイートまとめ(「ジャグラーと話すための外国語」シリーズ)

最近外国のジャグラーと話す機会が多い。
これは特に欧米の人と話すと問題になるんだけど、「どうして日本人は政治の話になると黙ってしまうのか」と言われる。

そもそも僕は日本人同士で、政治の話ってするだろうか?
しないんだよな。
一番直近で友達と政治の話をした時なんて思い出せない。

翻って、僕の周りのヨーロッパの人、アメリカの人と喋ると、その意見の傾向はどうあれ、ひととおり政治状況について語る言葉を持っている。
というか、流れで、そういう話になることが割に多い。

他にも、歴史の話にだってなるし、国の若者の考え方の話にもなるし、実にいろんなことを英語で(もしくはイタリア語で、あるいは場合によっては致し方なく、至極拙い中国語で)語ってきた。

そういう立場の人間としても、僕は曲がりなりにも外国人と話す機会がかなり多いわけだから、もっといろんなことを勉強して、もっと考え方を豊かにして、少なくとも自分の周りに起こっていること、というのを、俯瞰して見た、その状況を日本語ではない言葉でも伝えられるようになりたいな、と思う。

それは、現実的に、僕の「責任」であるように思う。
昨日は、1871年の岩倉使節団を描いた看板を見たエミールに「これはどういうことなのか/これより以前の時代の日本はどういう状況だったのか/将軍とは何か/天皇との関係はなんなのか」
色々聞かれた。

まぁ、一応勉強はしたし、なんとか流れくらいは覚えているから、それを思いつくままに英語で説明する。
(こういう時に、年号、ってもんを覚えているのがすごく便利だ。彼らが知っているのと同じ時の流れの中に、事実を配置できるからだ)

ここ何年か英語を「話す」生活をしている。
すると、「英語で話す内容の定型パターン」というのが見えてくる。
その定型パターンを学ぶことは第一段階としてある。
たとえばアメリカ人と話をする時に、今ならば「トランプ大統領」という人間をネタにしたジョークを言いがちだ、とか。

それで、そういう話題になった時に、どーも「こういう場合にはこういうこと言うのがまぁリベラルな人間だわな」みたいな感じで、「よく言われること」をそのまま言ってしまうことがある。
それで、「英語で何か言えた気になって」しまうことがある。

最近だとLGBTの話題なんかもそうだよね。
実際自分はどういう風に思っているのか、ということを、「ニュアンス」を超えて、相手に響くレベルでうまく言えない、というケースはすごく多いのだ。

ではなぜそれが難しいのか。
それは、日本語でそのことについてあまり深く話すことが少ないからだ、と思う。
(これは一般的傾向ではなく、少なくとも自分が、ということ。)

そりゃあ現代の若者として、とおりいっぺん、LGBTについてどう思うか、政治状況についてどう思うか、もちろん考えちゃいる。
けどそれを「語り合う」ということはしていない。
もしかすると、それは今のところ、日本の若者全体で見ても、傾向として、欧米に比べたら、話されていないことかもしれない。

で別に、これはもちろん「欧米の人ってなあ、ちゃんと意見を持っていていいよな、それに比べて日本は…」なーんてふうに言いたいんじゃないのだ。
僕が言いたいのは、まず「日常で話される話題」というのは、国によって随分違うんだ、ということ。
だからそれぞれ話題ごとに、得手、不得手がある。当たり前である。(要するにそれは習慣の問題なのだ)

それよりも、そういう状況の中で、自分はどういう立場にいたいのか、それを見極めるのが、大事だよな、ということである。

僕は少なくとも英語を覚えよう、と決心して、現在英語がある程度喋れる。「国際的な場」で発言することも多くなってきた。
だから、相手の「考え方」のバリエーションも必然的に多い。
それで、「こういう場合にはこういうことを言うんだ」というレパートリーを増やさなきゃな、と思っているのだ。

そんなわけで、僕にとっては、それが「外国語を喋る自分を鍛える」ということだ。

だからそれは「いろんな単語を覚える」ということでもある一方で、「面白いこと言うヤツになる」ということでもある。
そのために、「日本語でもいろんなことを読んだり書いたり喋ったりする」ということでもある。

※ ※ ※

さあ、「英語を頑張ろう」とお考えの人は、今日も英語を聞いたり、喋ったり、書いてみたりしましたか?

頑張るって言ったからには、毎日のようにやらないとな。

僕もフランス語をちょっとサボってるから、今から練習します。

別に僕、言うてもそんなに英語上手くないですけど(ほんとに)、ある程度知的なことを話せるようになるコツは、「いっぱい書く」ということじゃないかと思っています。
ゆっくり自分の時間をかけて書くと、ただ話すだけでは身につかないものが身につきます。

単純に「話す」方に関しては、「自分の言える言い回しでまかなう」技術を身に付けるのが、最初の段階ではカギです。
今日も本屋さんに行ったら、音声が延々と流れていて「彼は出っ歯です」だとか、すごく細かい言い回しやってましたが、それより、「自分だったらどう表現するか」を練習するのがいい。

いやもちろん「出っ歯」を知っててもいいんですけど(buckteethって言うらしい)そもそも相手がそれを知らなかったら結局また説明しないといけなくなります。

日本の英語教材って、英語の母語話者しか想定してないんじゃないか、って思っちゃうことがありますが、相手がそうじゃないことも多い。

ただ「英語がすでに話せる人」がこうすればいいよ、と言うことって、だいたいにおいてちょっと嘘が混じっちゃいがちで「文法なんかまともにやってない」とかの類の、謙遜や誇張、どちらも含む抽象化が多い。
だから僕がいま色々言っても、結局「役に立たない」事を言っちゃうことになるんじゃないか。

ということを考えた末、僕は、「フランス語を練習する過程」をここで実際に示していこうと思ったのだ。
これが、この前言っていた「思い切った企画」である。
結局今僕が「こうするといいのだ」と言っても、ある程度の有効性は持ちうるのだろうけど、なんか、卑怯じゃねえか、と思っちゃうのだ。
だから、もう一回別の言語で、自分で「やり方」を読者と一緒に探ることにしよう、とおもう。

※ ※ ※

じゃあ、さっきの出っ歯の話で例を出します。

最初に、これを英語で言おうと思った時僕の頭では何が起こるか。
まず「『彼は出っ歯です』というのはつまりどういうことなのか」
を考えます。

その光景を頭に描きます。

「彼は出っ歯です」というのはつまり、歯が口よりも外に出ている、ということだ、と分かります。
この状況を言えば、「彼は出っ歯です」と言ったことになるわけだ。

そこで自分が知っている言い回しでこのビジュアルをどう描くか、考える。

ぱっと「彼」ってまず言ってしまったとする。
“He”.
すると、次は動詞はなにかな、と考える。
is を持ってきちゃうと、言葉で言うのは難しくなる。難しいけど、いける。
もし目の前に相手がいるなら、自分の歯を突き出して”like this”といえば、それは立派に「彼は出っ歯です」と言ったことになる。

ではもうちょっと言葉で言うなら。
身体の部位とか、特徴についてなら、やっぱりhaveだ。
それで、He has(基礎的な動詞の変化は、口をついて出るようにしたほうが早い)とぱっと言ったとする。
で、まぁ歯の話だから、teethという。(toothかteethか、と細かいことは、まだ気にしすぎなくていい)

ここでまた、”like this”で、出っ歯マネ作戦でもいい。(いや、バカバカしく聞こえるけど、これは常套手段です。ジェスチャーでやっちゃったほうが早いことに関しては、ジェスチャーでやっちゃう、というのが円滑に会話をする1つの技術でもある)

あるいは、teethが、out of his mouthだ、これぐらいだったら、言えそうだ。
それで、彼の歯、His teeth,うん、His teeth are out of his mouth、うん、なんかいい感じ。、でも、これだと全部出ちゃってるみたいだ。
で、もう少し付け加える。

出っ歯って、出てるのは、前の方の歯だよな。えーと、前、フロント、うん、front teethかな、His front teeth are out of his mouth.
上出来じゃないか。
ノンネイティブ同士の会話ならひとまずこれで充分じゃないか。
少なくとも「出っ歯ってなんだろう…えー…」と固まってしまうよりだいぶいい。

こういう場合はto不定詞で、こういう場合はingで、だとか、aと theの区別だとか、いや、もちろん大事だよ。あとになったら大事だけど、そういうのはだいぶ話せるようになってから気にすることだ。そーいうことは、「話して/書いて慣れる」うちに、「あ、そういやこれ違うんだ」とあとで学習していく。

よく本屋やネット上で「こんな言い回し、ネイティブはしません!」みたいな(だいたいハッとした表情の日本人や、困惑した表情の金髪のにいちゃんとかが描かれてるんだ)とかあるけど、ああいうのはあんまり良くないんじゃないかとおもう。
「とにかく話す」という勇気を削ぐだけだ。

ジャグリングを長くやっているとだんだん軌道が綺麗になっていくのと同じで、多少意識さえしていれば、細かい間違いはだんだん修正されてくる。

なので、とりあえず、「話す」っていうのは、だいたいにおいてこういう感じで僕は繋いできました。
「言える言い回しでまかなう」とはこういうことです。

で、さっき言った、「たくさん書くといい」というのは。
こういうサバイバルな英会話をたくさんやってると、とりあえず会話はスムーズに運ぶようにだんだんなってくるんだけど、ある程度話せるようになった段階で、レベルが上がらなくなります。
そこからは、「書く」というのが大事になってくる。

「じゃあ実際『出っ歯』ってなんて言うんだろ」って、気になりますよね。
その時、「ははぁ、buckteethって言うのか」と調べたり聞いたりしてわかる。
書くときには、「時間をかけてベターな選択肢を探す」ということができて、そのことで、徐々に「とっさに出る言い回し/単語」の数が増えていく。

ちょっとした複雑な文章も、書いてるうちに、なるほどねえ、こうやって言うのか、と無意識のうちに「接続の仕方」とかを学ぶようになっていく。
それで、またひと段階、ガツっとレベルが上がります。
仮定法過去とかさ。会話してる時のスピードでなかなかぱって出せないですよ、あんなの。慣れないと。

後出しになると嫌なので付け加えておくと、一連のツイートは、「ジャグラーが外国のフェスティバルなどに行って10倍楽しめるようになる」ことを想定して書いています。
そういう意味での汎用性はあると信じていますが、英文科などできちんと学んでいる方などからしたら、いい加減に映るでしょう。

僕はもちろん外国語を隅々まで丁寧に学ぶのは憧れるし(何より外国語は好きですから)あたう限り研鑽に努めたいと思ってはいます。

黒田龍之助さんだとか関口存男さんだとか「きちんと学ぶ」ことを説かれる方の話も飲み込んだ上で、でもなんか、「とりあえず人と話したいんだよな〜」という気持ちを、(自分も含めて)まずは救いたいなと思ってます。
なので、ここでは割に「いい加減さ」を許容していく外国語のことを書いていきます。

2018年10月16日火曜日

第229回 「ジャグラーである」ということ

昨日数人のジャグラーと鍋をしながら、したい時に空いたスペースでジャグリングをする、という会をした。

ぼくらジャグラーは、「ジャグリングができる」ということを可能性としてすでに自分の身体に刻んでいる。

昨日、スウェーデンから来たジャグラーのエミールと、ダンサーの友達と、こんなことを話した。
「『ダンサーだった』っていうのは、状態としてありえないと思うんだよね。同じように、ジャグリングを覚えてしまったら、『昔ジャグラーだった』という言い方は通用しないよね。」
僕もそう思う。
というか、このセリフは僕が言ったんだったかもしれない。
あんまり覚えてない。(最近特に短期記憶になんだか問題があるみたいだ)

「もうジャグラーじゃない」という言い方の裏には、「研鑽を積んでいる期間が、「ジャグラーである期間」だ」という価値観が含まれているような気がする。
それは、研鑽を積んでいる、コミュニティの他人のことを、無意識に想定していることから出てくる言葉なんだろう、と解釈している。

これはただの言い方の問題でもある。
正確に言えば、「昔ほど真剣にジャグリングはやっていない」というところを、「もうジャグラーじゃない」というような言い方に替えていたりするときもあるだろう。

でも僕は言い方こそを気にする人間なので、「もうジャグラーじゃない」という言い方を肯定的に捉えることは、少ない。
「別にいいじゃないか、ジャグラーだ、と言ってしまえば」と訴えたくなる。

まぁ、あるいは、「昔は特に、一生懸命ジャグリングを練習したものだよ」と笑って胸を張って言えばいいじゃないか、と思ったりする。

※ ※ ※

僕はこの「『ジャグラーをやめられるか』問題」の中に、人生の捉え方を見る。
「何かをしている」ことを、「何者かである」ということに置き換える言い方は、簡潔に紹介をするときには便利だけれど、自分の人生について深く考察する場合には、あまり適していない物言いだ。
僕は人生の「そのまま」をなるべくリアルに捉えたいと思っている。
できることなら、「あの人は〇〇だ」とか「これこれは〇〇だから、こうなのだ」とか、断定して抽象化するものの言い方(すなわちそれは「捉え方」だ)の回数を少なくしよう、と努めている。

空の名状しがたい青色を、「青だ」という前に、その「名状しがたい青」を前にして、自分の心や身体には何が起こっているのか、ということを観察して、それを言いたい、と思っている。

「ジャグリングができる」ということを前にして、自分はどういう存在になれるのか、その可能性のことを前向きの方向で捉えるのは、なんだか、明るくって、いいじゃないか。

2018年10月14日日曜日

第228回 淡路島最終日

神戸のタリーズコーヒーで、今日のことを反芻している。

これから夜行バスに乗って横浜に帰る。
横浜で今度はスウェーデンから来ているジャグラーのエミールに会う。

※ ※ ※

淡路島滞在の最終日。
南あわじの、「かわら舞台」で、滞在中のアーティスト全員が出演するパフォーマンスを見た。
朝の10時から16時まで。

来場者は、いろいろ聞いたところ、淡路の人が半分、それ以外の徳島、大阪、兵庫から来ている人が半分、という感じだった。
アクロバットから、ジャグリング、早着替え、ヒューマンビートボックスまで、多種多様な分野の人たちが技を披露する。国籍も、イギリス、イタリア、スペイン、ルーマニア、ハンガリー、ロシア…実に様々。
3日間しか一緒にいなかったのに、パフォーマーや、スタッフのみんなと別れるのがとても惜しかった。
小さなお祭りを、一緒に作り上げたような気分になっていた。
また会おうね、横浜に来たら連絡してね、そっちにも行くね、と、挨拶をした。
みんなとハグをした。

また、主催のエレナさんの車に乗せてもらって、フェリー乗り場に行く。
岩屋からフェリーで明石まで12分、そこから電車で15分ほどで神戸だ。

出会った人に、いつも「君は何をしてるの?」と聞かれる。
僕は、「何者であるか」よりも、本当に「何をしてるか」をしばし語ることになる。
面倒な時は「ジャーナリスト」とか言うんだけど(嘘つけ)。

「僕は、アルバイトをしながら、ジャグリングの雑誌を作りながら、自分でもジャグリングをしながら、時々全然関係ない雑誌の手伝いとか、翻訳の仕事とかもしながら、あとは、そうですね、最近はフランス語を勉強してます」
ということになる。

僕がいったい何者なのかは、わからぬ。

※ ※ ※

全然見知らぬ人ばかりのところに行ったら、一番早く問題を解決する方法は、みんなと仲良くなってしまうことだ。
たくさんの人とつながる経験をした場所は、それだけで特別な場所になる。
それは淡路島であろうが、京都であろうが、横浜であろうが、アゾレス諸島であろうが、同じことだ。
すべて自分の「うち」になる。

Awaji Art Cirusのみんな、ありがとうございました。
あの場にいられたことが僕はとても嬉しかったです。

今日はなんだか、随分感傷的じゃーないか。


第227回 淡路島2日目。洲本市民広場で。

淡路島は、名前は知られているけれども、実際に来たことがある人というのはどれぐらいいるのだろう?

ここに来たら、まず車がないと移動は難しいだろう。
車で走っていても、見えるのはほとんど畑や田んぼ。
昔ながらの作りの家屋もぽつぽつと残っている。
何もないといえば何もない。


昨日は朝から、海岸線を望みながらバスで走った。
海は、日差しに照らされてきらきらしていた。
遠くに対岸の本州が見える。

淡路の北にある岩屋から、真ん中の洲本市にある、洲本市民広場まで。

洲本市民広場は、かつてカネボウの紡績工場だったところなので、赤レンガ造りの建物がそのまま残っている。

そこにある広場で、二組のパフォーマーが演技を披露する。
一人は、ガリロ、イタリアから来たワンマンバンド。(簡単に言うと、ひとりチンドン屋。)
もうひと組は、ロシアから来た、ダンス・クラブ・ポジティブ。
クラシックなロックンロールダンスを今風にアレンジして披露。

演技の前の準備なんかも、一緒に手伝ったり、散歩をしたりしながら、13時の開始を待つ。
ぽつぽつとお客さんが集まり始める。

イタリアから来たガリロと、久しぶりに話すイタリア語で話をした。
サーカスの世界は狭いもので、共通の知り合いなんかもいたりした。
「連絡先を交換しよう。今度ヨーロッパに来ることがあったら連絡してくれ」

この日は、洲本市民広場での演技を見るだけだった。
お昼は、すべてが終わった後、15時くらいに、イオンスーパーでみんなでおにぎりやら惣菜やらを買って食べた。

帰って来たら、また事務所で、アーティストからいろいろ話を聞いたり、ちょっとした仕事を手伝ったり、エレナさんのお子さんの相手をしたりして、23時ごろに寝床へ。


さて、今日は最終日です。
どんなことが起こるかな。

※※※

そうそう、今日はCircusTalk というアメリカのサーカス雑誌のインスタアカウントをジャックして、ストーリーを配信しています。
淡路の自然とサーカスの風景を、どーぞご覧ください。

こちら https://www.instagram.com/circustalk/?hl=en

2018年10月13日土曜日

第226回 僕だって本当は外国人と一緒にいることを、かなりのケースで不安だ、と思ってるんだ、っていう話。最終的には楽しいんだけど。そしてここは日本なのか。 (淡路島 Awaji Art Circus 編)

淡路島に来ています。
Awaji Art Circusというイベントに参加している。

昨日は、まず淡路島に夜行バスで到着し、着くなりすぐにAACの担当者のエレナさんに迎えに来ていただいた。
エレナさんは、今年の5月くらいからメールでやりとりをしていたのだが、その時は英語だった。
しかしいざ会ってみると、日本語がものすごく流暢な方で、びっくりしました。
まぁ、日本語でも大丈夫ですよ、とは前から言われていたんですけど。

聞いてみると、ウクライナ出身のエレナさんは大学でも日本語を専攻していて、もう、あしかけ15年勉強しているそう。
日本にも7年以上住んでいて、こちらで子供もいるんだそう。
なるほど。
イベントに行っても、スムーズに日本語で司会進行をしていていました。
「日本語がうまい」というのが逆に失礼なんじゃないかと思える人というのがたまにいますが、エレナさんは間違いなくそっちの人です。

さて、まずは民宿のような作りの(というか民宿だった施設を使っているよう)事務所に着き、アーティストたちと挨拶。
7カ国から来たというたくさんのアーティストたちが、のんびりしていました。




あいさつもそこそこに、いきなり、ルーマニアから来たマヌちゃんという人に(髪が真っ赤だ)「コーヒー飲む?」と言われ、コーヒーをいただく。

エレナさんに「ちょっと手伝ってもらえますか?」と言われて、水の入っただボールを運んだりもする。

座って何かしているスペイン人のルベンに話しかけると、「暇つぶしに作ってるんだ」と言って、宿泊場所の裏の竹林から取って来た竹に、カッターで「愛」という字を掘っている。



瞬く間に「一座」に入ったような気分である。

出発して、淡路島の南にある小学校へ。
一緒に行くのは、Cheese on Fireというハンドトゥハンドのカンパニーと、Nicolas Provotというラダーのアーティスト。
まさにEJCなんかで会う、オープンなタイプのフランス人、というか、一緒にハイエースで一時間も移動していると、車内の喧騒のせいで(主にフランス語)もはや日本にいる気がしなくなってきました。
もう二人の同乗者はエレナさんと写真家のナターシャ。

小学校では、まず子供たちにショーをして(わあわあ、きゃあきゃあ、とんでもなく盛り上がっていた。)次にスライドを使って、フランスの文化紹介。そして最後はちょっとした運動のワークショップをして、次の目的地へ。

子供たちはなんだか本当に、率直な反応を返していて、ああ、サーカスっていいなあ、と素直にこちらが思ってしまった。
なんか、ちょっと斜に構えた態度でサーカスを見ていた自分をそこに見たりした。
それが悪いというのではないが。

いったん徳島に入る鳴門大橋のふもとのあたりにいって、ドライバー交代をし、次の目的地のホテルへ。

向こうに見えるのは徳島県だ


ホテルでは、ロビーでショーを披露する。
あまりお客さんはいなかったが、奔放にショーをする3人。
「こんにちは〜〜」と言って、無実なホテルのお客さんたちを捕獲して席に座らせる。
でも、ショー、面白かったです。

終わる頃には、演者だけではなくカメラのナターシャもへとへとで、ぐっすり寝ていた。
僕は、JJFあとの仕事みたいなものがあったので、真っ暗なハイエースで、ヘッドホンをしてもくもくと文字起こしをしていた。

なんだか、自分は今どこにいて何をしているのか、全くわからなくなっていく。

途中でマクドナルドに寄ったりしてから、宿(じゃない、事務所)に戻ると、みんなリラックスしてお酒を飲んだり、適当に音楽を奏でたりしていた。

僕もそこに混じって、即興ディアボロをしたりした。
まぁ、こういう環境には、慣れているのだ。

と同時に、やっぱり、どこか「日常の自分」と、「『外国のアーティスト/ジャグラー』にかこまれた時の自分」の隔たりはかなりあって、唐突にものすごい寂しさを感じることが、わりにある。

「ああ、日本が恋しいなぁ」と思う。
日本なんだけどね。
そして、故郷の横浜はもっと恋しいな、と思ったりする。
でも横浜にいたらいたで、「飽きちゃったなあ」とか思ったりする。

旅の面白さって、「安心」と「新鮮」の絶妙なバランスの上で成り立っているんだよな。
「新鮮」が多いと、それはちょっとした冒険になる。
だから僕は、なんだか今、国生み神話で有名なこの島で、冒険しているような気分です。

2018年10月12日金曜日

第225回 淡路島に来ました。


淡路島に来ました。
これから、Awaji Art Circusというイベントの取材です。

朝神戸に着いた瞬間、「なでここにいるんだっけ…」となったくらい、ちょっとめまぐるしい出発だったのですが、気を取り直して取材してきます。

淡路島に来るのは、初めてだなぁ。

第224回 ディスコース

なにかとなにかが「会話をする」ということがある。

ジャグリングとそれ以外が会話をする、と言うとき、それは、「ジャグリング」と「生きること」が一致しようとするときのことでもあるな、と思う。

2018年10月10日水曜日

第223回 エミールとお好み焼き

JJF3日目が終わって、ゲストのエミール・ダール君が「他の外国人の参加者とご飯食べに行く」というので、一緒に行くことにした。
何より、日本にいるのに、日本人と触れ合う時間が少ない、ってのは、やっぱりダメだろう、と僕は思うのだ。
この国に来てもらった以上、僕はなるべくいいホストになってあげたいな、と思う。

僕はこのことを、自分で旅行する中で学んだ。
国に対していい印象を持つのは、トイレが自動で開いてくれる、とかそういう理由で好感を持つわけじゃなくて、人々が僕のことを思いやってくれる、という時である。

で、大会の最中、いろんな人がエミールと積極的に関わっていたから、その点に関してよかったな、と思う。
どんどん、もてなしてあげるのがいい、と思う。

それでですね、僕は一緒にご飯を食べる、っていう経験が、すごく好きなんですよ。

何がいい、って、まぁ、一緒にお好み焼き焼いたりする方が、僕は好きだから。
一緒にリングさわるのもいいんだけど。

ほら、どうしても、ジャグリングのことになると、エミールの方が圧倒的に技術はあるわけだから、なんだか、ちょっと萎縮しちゃうじゃないですか。というか、エミールにとって僕が面白い存在である、ということは、つまり少なくとも体育館の中では、ジャグリングに関わることで、面白いことを見せることがメインになるわけです。
でも、僕はそんなに、いろいろ面白いことができるでもない。

でも、お好み焼きは、僕の方が先輩なわけです。
だから、「いいかエミール、これをマネしてくれよ」とか言って、お好み焼き焼くわけです。
じゅうじゅう。
そうすると、エミールも、なんだか喜んでくれるわけです。「わーお」って。

こういうことならば、結構誰にでもできるわけです。

そして、こういう些細なことを通して、ジャグラーは、ジャグラーとして、というより、人間として、「いい経験」をしてくれるんじゃないかな、と思う。

お好み焼き程度で、大げさな、と思うかもしれないけど、僕はそうでした。
フィンランドでトナカイのスープをご馳走になったり、フランスで美味しいケバブの店を教えてもらったり、そういうことが僕の旅をあたたかな印象で彩っている。

だから、ジャグラーというのは、特に外国から来たジャグラーと関わる時というのは、「ジャグリングをしない時」こそ、もっと積極的に関わるべきじゃないか、と思ったりするのだ。

2018年10月9日火曜日

第222回 JJFで考えたこと、の、予告。

今回のJJFでは、いろいろなことを考えました。
僕は今なんだか、随分、いわゆるモチベーションというやつが、高まっています。

※ ※ ※

あくまで僕は、ジャグリングを人生の中でおこなっている、という自覚があるので、ジャグリングのことを考える時に、逆説的ではあるんだけど、どうしても「ジャグリング以外のこと」を考える。

とくに、今回僕がふたつのワークショップ、「ジャグリングと「関わって」いく」「EJC2018報告会」を開いたのには、そういう背景があります。
残るひさしさんとのワークショップは、ひさしさんの話を自分自身も聞きたかったから、ということがある。

今のうちに、鉄が熱いうちに、たくさん打っておきたいな、という思いだ。

今回たくさん考えたことや、JJFそのものについてのことは、なるべく早めに形にしておきたい。そして、形にして、「これが、要するに、僕がジャグリングと生きていくということなんです」と言えたらいい。

2018年10月8日月曜日

第221回 JJF2日目

引き続き、日本最大のフェスティバル、JJFに参加しています。

ワークショップをふたつ、そしてゲストステージを終えました。

「ジャグリングと「関わって」いく」というトークセッションでは、ジャグリングとどう関わって行くのか、について漠然としたおもいをいだいた状態で、アドリブで中西みみずくんと話しました。

EJC2018報告会では、例年通り、EJCに言ってきたお話。
なんだか、僕がすごく楽しそうに話しています。
(音声のみ、録音してアップロードしました)





ゲストステージは、どの人も、それぞれの価値観でものすごくレベルの高い、面白いものを披露していた。

ホワイトアスパラガス、「ボールマスター」って、へいへいのあのあとの下りがそれなんだと思っていたよ。
新しいネタだったんですね。

それぞれの感想を書くには少し疲れすぎている。

変わらず、僕はどこにいるべきなのか、とか考えたりもしてます。

2018年10月7日日曜日

第220回 JJF1日目

東京は代々木のオリンピックセンターで、日本最大のジャグリングフェスティバルが開かれています。

昨日は3日間あるうちの、1日目。

10時半ごろ到着、PONTEのブースを設置しました。

久しぶりに会う人と話をしてから、JJS(ジャグリング・ジャム・セッション)というイベントに出る。
年々レベルが上がっているな、と感じる。
そして、なんだか、JJFの中でのジャグラーの「傾向」の多様性の一部のようで、僕はそういうのを見るのが非常に愉快です。

優勝した、コンタクトジャグラーたろりん

そして、チャンピオンシップ、という、順位のつく選手権もありました。





ヨーロッパのジャグリングコンベンションを経てから、台湾に言ってジャグリングバトルを見て、そして日本のコンペティション文化、独特のバトル文化を見て、自分の立ち位置について、考えてしまった。

昨日も書いたけど、そういう中で、切実なものがなんなのか、ということを、今日、ワークショップで話したりする中でも考えようと思っている。

第219回 僕は、それをジャグリングの中で、探そうとしている。

送れてしまいましたが10月6日の分です。

何が自分にとって切実か、ということがある。
僕は、それをジャグリングの中で、探そうとしている。

なんでジャグリングの中か、というと、主に、なんだか人生の因果で、ジャグリングとの付き合いが長いからである。

そんな話を、明日しようとおもっている。

2018年10月5日金曜日

第218回 チームとか

PONTEをチームでやる、という発想を再び復活させた。
と、こんなことをここで宣言しても、見ている人は10人くらいしかいないのも知っている。
ただ、まぁそんな状況でもあるし、今思っていることを正直に書いておこう。

JJFに出展したりだとか、今度淡路島に取材に行ったりだとか、なんやかやで、いろんな仕事がある。そういうことを一人でやる中で、雑誌そのもののスケジュールも自分一人で全部管理する、というのは、なかなか難しい。
それは労力がかかる、という意味の難しい、ではなくて、自分の意見をぶつける相手がいない、ということの難しさである。

自分が何かを考えた時、それをぶつける相手がいないと、全然、前進しないことが多いんです。
たとえその考えたことが素晴らしかったとしても、それをいったん誰かのために「見せられる」形にすることは大事だ。
そうでなければ、決してすすまないこと、というのがある。

自分の頭の中では、先の方まで見えているんだけど、それをいざ実現しよう、と思った時、そこにある「着実にやらないといけないこと」が、人に意見を述べる、という形で「線状」に開く時、明瞭になる。
ああ、まだ全然具体的に考えられていなかったんだ、と思う。

頭で考えていること、というのは、現実とはかなり違うのだ、ということも、人と話す中で、自然とわかってくる。

2018年10月4日木曜日

第217回 JJFがわくわくすること。

昔は、JJFに行く、というととんでもなくわくわくしたものでした。
今は、というと、昔ほどはわくわくしていないような気がします。
でも、こうやって書いているうちに、久しぶりに会う人たちのことを思い出して、そのことでわくわくしてきました。

初めてJJFに行った時は、高校の友達と二人で静岡まで行きました。
あの時のO君は、まだジャグリングを時々はやってるだろうか。

あの時は、とにかく見るもの全てが新しくて、インターネットでしか知らなかったような人にもたくさん会って、ぐるぐる、興奮しっぱなしだったような気がします。

パッシングを見るだけでも、とても愉快なきぶんになった記憶がある。

それがだんだんと時が経って、いや、こんな月並みなことを言ってもしょうがないのだけど、見方が変わってきたのだなぁ、と思う。

大人になった、とか言っちゃってもいいのかも知れない。
それよりも大きな物事をたくさん経験してきた、と思う。

しかしやっぱりこうやって書いていて、ますますわくわくしてきたよ。

やっぱり、知らないみんなも、知ってるみんなもたくさん集まるイベントってのは面白いよな。


2018年10月3日水曜日

第216回 さて27歳

今日で27歳になりました。
だからどうだ、というのでもなく、最近は誕生日というものを気にしなくなってきました。
自分のも、他人のも。

ただひとつ思うのは、歳をとることは嬉しいな、ということです。

歳をとるのは嬉しい。

ジェイ。
ジェイの話をしましょう。

ジェイ・ギリガンは、アメリカ生まれの、アヴァンギャルドを代表するうちのひとりのジャグラーです。



上の動画は、ジェイが30年間ジャグリングをやってきた、ということを記念して作った動画。この時点でジェイ自身は39歳です。

歳をとるとナメられなくなる、ということが僕は好きです。
一方で、「歳がいっているから」という理由で偉そうにしているひとがいるとしたら、それは好きではないです。

年月をかさねてきたことが、確かにその人の中に現れている。
そしてそれが外に自然ににじみ出ていて、その時、おのずからそのことを敬う、ということであるのが、一番いいな、と思います。

30年間ジャグリングを続けることというのは難しいか。
僕は、そんなに難しくないんじゃないか、と思う。
続けること自体は全然難しくない。
このブログだってそうだけど、一度ループに入ってしまえば、続ける、ということ自体はそれほど苦ではなくなってきます。

ただ、本人が、続けることに関してわくわくしている度合い、ということになると、それは、高いか低いか、いろいろなケースがある。
「なんとも思ってない」というのはよくあるケースかもしれないですね。

なんとも思ってない。

できれば、わくわくするような、「続ける」をやりたいよな、と思う。

でも、わくわくする、というのは、それを「おこなっている」最中に常に感じていることではなかったりする。
実際には、何年か続けて見て、振り返った時に「そうか、これだけのかさを積み重ねてきたんだ」という形で初めて嬉しく思う、ということも多い。

そして、頑張りすぎちゃうと続かなくなる、ということも真実だよな。

とりあえず、27歳になって、今僕はジャグリングを12年半やっていることになる。
そのことにわくわくしているか?

それは。

ふふふ。

2018年10月2日火曜日

第215回 ジャグリングと親切心について

文章を書く時に、最近は、なるべく親切に書こう、ということを心がけています。
それが読んでくれる人に対する、ひとつの誠意じゃないか、という気がするからです。

で、ジャグリングのことを考えても、そういう言い方が成り立つ時ってあるよな、と思う。

おもにジャグリングを見せる時ですが、一個一個、「何が起きているのか」ということをわかるようにジャグリングする、というのは、心がけてもいいじゃないか、と思う。

そのことを考えると、体はどういう向きがいいのか、軌道はどういう軌道がいいのか、衣装はどういう衣装がいいのか、そういうことを、どんな方針で考えたらいいのか、わかりやすくなるような気もする。

別に簡単なことをやる、というのではなくて、難しいことほど、どうわかりやすく伝えるか、ということだと思う。
見せる順序や、見せる前の話の持っていきかたなんかも、文章と同じように、腕の見せ所なんだろうな、という気がする。

2018年10月1日月曜日

第214回 「ジャグリングがあれば言葉はいらない」のか(ジャグリングがつなげるものシリーズ)

みなさん、台風、大丈夫でしたか。

※ ※ ※

ジャグリングが、いろんなことをつなげてきました。

昨日は千葉まで行って、パフォーマンスをしました。
ご馳走になったフランクフルトが美味しかった。
ジャグリングが僕とフランクフルトをつなげた。

さて、僕が「ジャグリングがつなげるもの」と言って一番強く感じるのは、ジャグリングを起点にした、海外とのつながりです。
文化の違うところに行くと、必然的に「よそもの」として入ることになりますが、その時、お互いがジャグリングをする、という共通項があると、氷をブレイクしやすい。
そういう意味で、ジャグリングはコミュニケーションの大きな助けとなります。

でも、だからといってそれで完結するわけではない、と僕は思います。

一方では、「ジャグリングがあれば言葉はいらない」とか、「ジャグリングがあれば通じ合える」とかいう言い方をされることがあります。
僕はそう言い切ってしまってはいけないと思います。

「言葉なんかいらない」と言い切ってしまうと(いや、そう言いたい気持ちはすごくよくわかるんですが)そこから先にある、「言葉が通じる」ということの何倍もの豊穣が、見えなくなってしまうからです。

実際には、「ことばが通じる」ということはとても、とても大事です。

ことばが通じなくても、仲良くすることはできるし、むしろ言葉なんか下手に通じない方が、仲良くできることが多いかもしれないです。
ことばがなくても、感動を届けることはできます。
でも、人と通じ合う、ということは、仲良くしたりポジティブに感動したりすることだけではないだろう、と思います。
僕はそう思って、ちょっとでも外国語を勉強しようとつとめている。

お互いに通じる言葉で、喧嘩をしたり、議論をする。
その度悔しい思いをしたり、分からないなぁ、という部分だってたくさんあるから、少なくとも、理解できるようにがんばろう、とおもうし、「才能がない」とかふにゃふにゃ言わずに、自力でなんとかしようとします。
ワークショップを受けていても、本人が伝えようとしているニュアンスをそのまま受け取れたら、どんなにか素敵だろう、といつも思う。
英語というとりあえずの媒介ではなく、本人の母国語を理解できたらもっと楽しいだろう、ともいつも思う。

至極当たり前ですが、「考え」のやりとりを通して学ぶことは、とても多いです。

現実的には、さすがにたとえば外国語をスムーズに理解できるようになり、発信もできるようになることは、すぐできることではないです。時間がかかります。
だいたい、本気で外国語学習が嫌いだったり、苦手な人だってたくさんいます。
だから別に外国語を勉強せよ、と言うつもりは全然無いのですが、でも、「ことばはいらない」と言い切ってしまわず、「ことばが通じるようになんとか払う努力」や、「ことばが通じることの豊かさ」に対して余地を残しておく方が、よりよい、ものの言い方じゃないかな、と思うことはあります。