2018年10月16日火曜日

第229回 「ジャグラーである」ということ

昨日数人のジャグラーと鍋をしながら、したい時に空いたスペースでジャグリングをする、という会をした。

ぼくらジャグラーは、「ジャグリングができる」ということを可能性としてすでに自分の身体に刻んでいる。

昨日、スウェーデンから来たジャグラーのエミールと、ダンサーの友達と、こんなことを話した。
「『ダンサーだった』っていうのは、状態としてありえないと思うんだよね。同じように、ジャグリングを覚えてしまったら、『昔ジャグラーだった』という言い方は通用しないよね。」
僕もそう思う。
というか、このセリフは僕が言ったんだったかもしれない。
あんまり覚えてない。(最近特に短期記憶になんだか問題があるみたいだ)

「もうジャグラーじゃない」という言い方の裏には、「研鑽を積んでいる期間が、「ジャグラーである期間」だ」という価値観が含まれているような気がする。
それは、研鑽を積んでいる、コミュニティの他人のことを、無意識に想定していることから出てくる言葉なんだろう、と解釈している。

これはただの言い方の問題でもある。
正確に言えば、「昔ほど真剣にジャグリングはやっていない」というところを、「もうジャグラーじゃない」というような言い方に替えていたりするときもあるだろう。

でも僕は言い方こそを気にする人間なので、「もうジャグラーじゃない」という言い方を肯定的に捉えることは、少ない。
「別にいいじゃないか、ジャグラーだ、と言ってしまえば」と訴えたくなる。

まぁ、あるいは、「昔は特に、一生懸命ジャグリングを練習したものだよ」と笑って胸を張って言えばいいじゃないか、と思ったりする。

※ ※ ※

僕はこの「『ジャグラーをやめられるか』問題」の中に、人生の捉え方を見る。
「何かをしている」ことを、「何者かである」ということに置き換える言い方は、簡潔に紹介をするときには便利だけれど、自分の人生について深く考察する場合には、あまり適していない物言いだ。
僕は人生の「そのまま」をなるべくリアルに捉えたいと思っている。
できることなら、「あの人は〇〇だ」とか「これこれは〇〇だから、こうなのだ」とか、断定して抽象化するものの言い方(すなわちそれは「捉え方」だ)の回数を少なくしよう、と努めている。

空の名状しがたい青色を、「青だ」という前に、その「名状しがたい青」を前にして、自分の心や身体には何が起こっているのか、ということを観察して、それを言いたい、と思っている。

「ジャグリングができる」ということを前にして、自分はどういう存在になれるのか、その可能性のことを前向きの方向で捉えるのは、なんだか、明るくって、いいじゃないか。

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