2018年4月30日月曜日

第61回 身体に近いスティック

練習にディアボロのスティックを持って行くのを忘れました。
紐だけが、リュックの底に落ちていました。
仕方がないので、紐と手をスティックの代わりにして、ディアボロを操作しました。

Naoya Aokiさん(@jugglernao)がシェアした投稿 -

驚いたことに、というか、あんまり違和感がなかった上に、むしろこれはこれで自然なんじゃないか、という気さえしました。

ヨーヨーの4A(オフストリングス、ヨーヨーが紐から完全に離れる)によく似ていますよね。

(あえて2014年)
4A界のレジェンド、岩倉玲(れい)さんです。
4Aですでに蓄積されているテクニックをしっかり研究したら、もっと面白いだろうな、とも思いました。

そして根本的なこととして、そもそもスティックを使うのってなんでだったんだろう、とか思いました。

一番初めの頃にディアボロをやっていた人は、どんな紐を使っていたんだろう、一体何に紐を結びつけて使っていたんだろう、どういう素材のスティックを使っていたんだろう、ディアボロの「スティック」という概念も、やはり誰かが意図して「開発」したものなのだろうか。
様々な考えが頭に去来して、結構新鮮でした。

身体の延長としてスティックが開発されたとするならば、それをもう一回身体に引き戻したい、という欲も感じました。
時々ディアボロが、スティックを使って操作するものである、ということにフラストレーションを感じることがあります。
だから、ボールなりなんなりをジャグリングして、「整体」したいな、と感じる。
あとは、逆立ちしたりして。たまには思いっきり身体を使いたいんですよね。

もっと身体に近い「スティック」、例えば、紐の先に付いているのがボールだったり、輪っかだったり、もっともっと「太い」スティックだったり、試せることは色々あるんじゃないか、という気がしました。

2018年4月29日日曜日

第60回 気がついたらどこか全然違うところにいる、っていうのはいいですね。

昨日は、鎌倉のゲストハウス、「IZA鎌倉」で、まめさん、Michelさんと一緒に、横濱ハッピーターンとしてパフォーマンスをしました。
IZA鎌倉は、一軒家を改造したような、等身大で落ち着く宿泊施設です。


スペースはそれほど大きくなかったんですが、お客さんもそんなに多くなかったので、ちょうどいい距離感でした。

ところで、パフォーマンスのあとに、自分のパソコンを忘れてきてしまったんですね。
それで今朝、あっ、と気づいて、急いでまた鎌倉まで取りに帰りました。
ゴールデンウィークの始まりで観光客が多く、電車が混んでいました。
晴れているし、徒歩30分くらいならいいか、と思って、よく晴れた海岸線を、爽やかなサーファー達を横目に小走りしてゲストハウスを目指しました。
ゲストハウスに着き、カウンターの中にあった忘れ物をとって、またすぐに駅に引き返して、今は横須賀線に乗って仕事に向かっています。もうすぐ横浜。

ゲストハウスの人に挨拶する暇もなく、電光石火でトンボがえりだったんですが、なんか、この疾走感というか、自分でもあれ、今どこにいるんだろう、と思ってしまうような感じは、なんだかたまんないなー、と感じますね。

自分が驚いている感じがありありとわかります。
気がついたらどこか全然違うところにいる、っていうのはいいですね。

2018年4月28日土曜日

第59回 思い出すことなど

今日、鎌倉でパフォーマンスをすることになっています。
横濱ハッピーターンというグループで出ます。

そのための展示物として、EJCの時の写真をまとめていて、そこで感じていた空気を思い出していました。

もう半年以上も経つんだな、と思うし、また今年も、楽しみだな、とも思うし、自分の中で、ヨーロッパでの経験への距離感がだんだん変わっている、ということも感じます。

2018年4月27日金曜日

第58回 語るか、演るかだ。

自分が好きなジャグリングを見て、「これはこういうところが、こうだからいいよね」と明確に言語化する(しようとする)人と、「なんか、いいよね」という人がいます。中には、敢えて語らない人もいます。

それらは、少なくとも外に出てくるものが何であろうと、よい、と思っている程度は同じなんだろうな、とふと思いました。
ただその思ったことを、どのように運動で外に出力するのか、というところに差異があるのだ、と。



茂木さんの講演を折に触れて聞くんですが、(私は高校の頃から茂木さんに勝手に私淑しているので、いろいろと影響を受けています)ここで、まさにこのところ関心を持っていたことをそのまんま言い当てられていました。

『種の起源』のダーウィンのひ孫、ホラス・バーローさんが、論文が書けない、何を書いたらいいかわからない、という人に対して "Why doesn't he write it and find out?" (書いて見つければいいんじゃないの?) と言った、という話から始まります。( 3:30くらい )

「行動をとることによって、自分が何を考えているかがわかる」
ということ。
「人間の脳には面白い性質があって、自分自身との対話が、外を一度経由しないと完結しない」(6:25あたり)
という、もうこれが全てを説明していますね。
逆にいうと、行動をとるまで、自分が何を考えているかわからないんだ、と。

そして「感覚学習と運動学習のループを回す」ということについて語っています。
感覚で、受動的に蓄積した情報と、逆に発信ができる能力が一番釣り合いが取れているのは、言語だ、と言います。
ははあ、と思いました。

自分の身に降ってきた例えば、「ジャグリングをしている時の環境音がいいんだよね」という感想を、言葉にすることと、それをモチーフにしてジャグリングをすることは、同じことなんだな、と合点が行きます。
ジャグリングをする方は、おそらくもっと、感覚で学んだことに近くなります。

「言葉にはできないよさ」というのは、自分が感じられる、処理できる質の情報が、一度に多量に訪れてオーバーフローを起こすことかもしれない、と思いました。
感覚では、受容することができる質が、運動で外にすぐ出力できない、その高揚感のような気がします。

ちなみにあんまり関係ないんですが、昨日、『グレイテスト・ショーマン』をやっと観ました。

2018年4月26日木曜日

第57回 リングの歴史を少し

https://www.juggle.org/juggling-rings-their-history-development-and-innovation-part-1/
ジャグリングのリングの歴史について上記の記事を読んでいました。
アメリカのジャグリング道具歴史家、デイヴィッド・ケインさんによる記事です。

彼によれば、リングがジャグラーの間で広く使われ始めたのが
1930年代だ、というところです。

輪っかを投げるという発想って、
すぐに生まれそうなものですけど、案外そうでもなかったんですね。

今あるジャグリングの形、ジャグリング「道具の形」のスタンダードが
どれぐらいの歴史を持っているのか、もっと詳しく知りたくなりました。

とりあえず、Web上と書籍で見つかるリソースで、
少しずつ調べて、書いていこうかと思います。

2018年4月25日水曜日

第56回 「書ける」とはどういう状態なのか、「ジャグリングできる」とはどういう状態なのか

ものを書くときに、パソコンなり紙なりに向かったとき、
初めて書くことが生まれる、というようなことを昨日書きました。

「ものが書ける」とはどういう状態なのか、について考えます。
なので、まず「ものが『書けない』」という状態について考えてみます。

「書けなくて困る」ということがよくあります。
そのとき僕に起こっている事とは何か。
それは「行為としての書くこと」ができないのではなく、
「書き出せない」
ということであるような気がします。

「書き出せない」のはなぜか。
それは、「面白いことを書こう」という思惑があるからです。
まず面白いことを(あるいは面白いであろうことを)思いついてから、
それをトレースするように、文字に起こしていこう、
端的に言って、そういう考えがあるからです。

でも実際には、少なくとも行為としての「書く」
を実行することに、物理的な障壁はほとんどありません。
「よし、書こう」と思ったら、
思惑が邪魔をするより先に書き始めてしまえば
いとも簡単に書き出すことができます。

そこに何か問題があるか。
あるとすれば、書いた結果が全然面白くない、とか
全く論理を欠いている、とか読みづらい、とか
そういうことが起こる可能性はあるかもしれません。

実際には、よく考えて書いたことが必ずしも面白い訳ではないし、
「考える前」に、前のめりで書いた文章が
毎回支離滅裂のつまらない文になる訳でもありません。

だから、「書く」のは、それほど深く考えずに
いきなり始めてしまう方がいいのかもしれない。

会話のことを考えてみればこれはよくわかります。
人と会話をするとき、推敲はできません。
あらかじめ紙に書いた内容だってありませんから、
常に即興で話すしかない訳です。
思念が形を取るまでのスパンが短い、とも言えます。
会話は、より「反射」的である、と言えます。
なぜなら、そこに考える余地がないというか、
むしろ「考えるよりも先に」脳が筋肉を動かし、
声帯を震わせ、それが音波となって出てくる、
そのプロセスを、全て自分ではコントロールできないような気がするからです。
(またしても、自意識なんてない、という問題になってくる)

「書ける」ということは、どう言う状態なのか、
外国語を話す、ということに照らし合わせて考えると、
また少しはっきりするような気もします。
ちょうど今僕はフランス語の学習アプリで、
スキットを聴きながらこれを書いているので、
それで考えてみます。

僕はフランス語が話せません。
それは、今までに蓄積してきた言語体系の量が少なすぎるからです。

日本語で僕が話をするとき、
つまり考えに先立って何かを言う時、
それは今まで聞いたことのある言い方を、
その場で有効に組み合わせて発している、としか思えません。
創造性とは記憶のことだ、とは言いますが、
それに近い。

「今、この場」で何かを発信すること全ては、
今まで自分が受容してきたものの記憶のデータベースから
断片を組み合わせて外に出しているはずです。

フランス語では、
僕の中で、まだ有効に組み合わせられるほどのかさの
言葉の蓄積がないので、そもそもそれを話すことが「不可能」です。
「ものが書けない」と言うときの「書けない」とは実行不能性の意味が違います。
つまり、「まだフランス語で意味がある、面白いことが言えない」のではなく、
まだ実のなっていないみかんの樹からは、
いいみかんも悪いみかんも採ることができないように、
そもそも実が全然なっていないから、何も取り出せない訳です。

それをふまえて、「ジャグリングができる」とはどういうことか考えてみます。
と言うより、よりスペシフィックに「やることを思いつかない」と言う状態を考えたいです。
(まぁ、なぜなら、しょっちゅう起こるからなんですが)

と思ったんですが、なんだかどうも、この先がわかりません。
前のめりで書くと、こういうことが起こるんですね。

2018年4月24日火曜日

第55回 ディアボロを持つと練習が始まる

昨日も外でディアボロの練習をしました。
天気は悪かった。

Naoya Aokiさん(@jugglernao)がシェアした投稿 -
ディアボロを持つと、
自ずと何をするか決まってくる、ということがあります。
別に「よし、これをやろう」と思ったことを、
そのままやっているわけでは決してないです。
「よし、これをやろう」という「これ」の部分の決定権は、
自分にあるような気もしますが、実際のところ、
なんで自分がそれを思いついたのかは不明であることの方が多いです。

文章を書くときも、画面や紙に向かうと、「何かしよう」という意思の中に、
行為が生まれてくる感じがあります。

動くというのは不思議なものですね。
これから自分が何をするか、というのは、
自分でも知らないんですね。

このことを深く掘り下げて難しくすると、「自己の意識とは何か」の問題になります。
自分の意思で何かを操るということは、少なくとも「わたし/僕/俺/I etc...」という自分の「意識」が思っているほど自律的じゃないというか、むしろ矛盾するようですが、他律的でさえあるように思われます。

2018年4月23日月曜日

第54回 サカリさんのオブジェクトマニピュレーション

Sakari Männistöさん(@mnnistol)がシェアした投稿 -
ちょっと前のインスタグラムの投稿なんですが、 現代のジャグリングを代表する1人、サカリ・マンニストさんの、 「オブジェクト・マニピュレーション」と称したこの動画がすごく好きです。

2018年4月22日日曜日

第53回 「ながめくらしつ」による野毛大道芸の作品を見ました。

昨日、野毛大道芸で、ながめくらしつの演技を見ました。



こういう良い作品が公共の場で見られるというのは、
とても恵まれたことなんだな、とふと感じました。

2018年4月21日土曜日

第52回 『ディアの音を聴け』

今日もまた外でジャグリングをしていました。
ときどき前や後ろを大小さまざまな犬が通るので、
充分気をつけないといけません。
今日も、幸せそうな顔をした、明るい茶色のしば犬が僕の前を悠然と通りました。

さて、外でも中でも、ヘッドホンをしたまま練習することが多いです。
Bluetoothで、コードが絡まなくて、
気持ちがいいのです。

ですが、ヘッドホンを外すと少し技の精度が上がることに気がつきました。

別に今日初めて気がついたわけでもないし、おそらく多くのジャグラーに
結構起こる経験だとも思います。
ただ少なくとも僕についていえば、ついこのことを忘れてしまいがちです。

そういえば、ジャグリングって音も聴きながらやっているんですよね。

最近、電車の広告で「ゴールボール」という競技の存在を知りました。
なんでも、目隠しをしながら、鈴の入ったボールを転がしておこなう競技だそうです。



ここには多くのヒントがある気がします。

普通ジャグリングって、目でやると思ってしまいがちですが、
考えてみれば、全身のあらゆる感覚を総動員してやっているんですよね。
視覚はもちろんのこと、触覚、聴覚。
嗅覚だって使っているような気がします。
(味覚はさすがに使っていないかもしれないですね)

音と、微妙な空気の流れと、自分の手の感覚と、全てを把握するつもりで
感覚を研ぎ澄ませてやるジャグリングを意識したら、
もっとうまくなれるんじゃないかという気がしますし、
その「感覚を研ぎ澄ませる」ということ一つをとっても、
一生をかける価値のある大きな挑戦のような気さえします。

ほんとに。

2018年4月20日金曜日

第51回 小林秀雄が語ったことと、ジャグリングで感じていること



昨日、なんとはなしに、仕事の休憩中に小林秀雄さんの講演を聞いていました。
そこで、
「日本はいつでも、学問が外から押し寄せて来る国なんです」
「外から非常に高級な学問が押し寄せてきて、
これを応接しなくちゃならなかったんです」(30:34あたり)
という言葉に触れて、ハッとしました。
いつでも、外から来る学問と戦わなければならなかった。
そして、自分たちのものを生み出してきた。

ジャグリングの文化、という事に関して
似たような感覚があります。

もちろん好んで受け入れた楽しい文化でもあるんですが、
今もしかすると、その限界と戦っているのかもしれないな、という気がしてきました。

別に「日本はなんでもかんでも外から来たものを有難がって」みたいな、
陳腐なことを言いたいんじゃないんですが、
ただ似たような状況は繰り返し起こって来たんだな、と
直感しました。

前から小林秀雄さんの講演は聞こう聞こうと思っていてたのですが、
ついに聞いてみたら、実に軽快に喋る方で、
すごく面白くてびっくりした。

2018年4月19日木曜日

第50回 ジャグリング「専用」のボールが持っていた魅力

ジャグリングショップ・ナランハで売っていた
「ジャグリング専用ボール」には、とてもワクワクしました。
純粋にスキルを突き詰めるために専用で作られたボールである
というところに魅力を感じていました。
「これを持っていれば今よりうまくなれる」という予感、
「これを持っていればジャグラー」という憧れ、
それが「ジャグリング専用ボール」の放つ輝きでした。

自分の能力が上がったわけではないのに、
道具が変わっただけで気分が変わる、というのはどんな世界でもよくある事ですね。
実際、使いやすい道具を使えば、うまくもなります。

今はその感覚で始まる
「"いわゆるジャグリング道具"を持っているからこそのジャグリング」とは
別のことをよく考えているような気がします。
具体的に言えば、その世界に窮屈さ、風通しの悪さを感じている、
ということです。
単純にそういった既製品を使わないということについても考えるし、
自分で作りたい、ということも考えるし、
「量産されるジャグリング道具をジャグリングする」だけにとどまらない、
ジャグリングの新しい切り口はなんだろうな、と思っています。

雑誌を作る、というのはその一つの答えかもしれません。

10年以上ジャグリングをしてきた今、
「同一規格のジャグリング道具を使ったジャグリング」
で、仲間が世界中にできることの豊かさを知ったのと同時に、
そればかりじゃつまらないよな、ということを、示し、
実際に何か形にしたいと思っています。

しかし、昨日も書いた事ですが、
やっぱりそういう
「ちょっと変わった趣味」
として、ジャグリングを知ってもらって、
ミルズメスくらいまでできるようになってもらって
楽しくなってもらう、ということにも、
すごく価値があるな、と思っています。

現に自分自身がそういう原体験を持っているからです。

そのどちらでも、
やりがいを感じることができたらいいな、と思います。

2018年4月18日水曜日

第49回 横浜で中西みみずくんに会いました。/ ピザ回し練習会と、ジャグリングの、「遊び」の部分。

おととい、京都から来ていたピントクルの中西みみずくんに会いました。

彼とは付き合いがなんだかんだで長いです。
と言っても3年も経っていないんですが。
なんだか長く感じます。
みみずくんはジャグリングのことをとても真剣に考えていて、
会う機会があればちょこちょこ会って、
お互いに近況を報告したり、考えを交換しています。

今度、東京で公演もやるみたいです。

このところ人と会って話をすることが多く、そのことをとてもいいな、と思います。

さて、みみずくんとの話の中で、
ジャグリングって、もっと遊びっぽくていい部分もあるはずなのに、
なんだか真剣になってしまいがちだよね、ということも話しました。

というのは、先日代々木公園で行われた「ピザ回し練習会」で、
ピザ回しなんて全く触れたことがない方々が
興味を持って回して行くと、
「なんだか面白いね」
と笑顔になるのが、すごくいいな、と思ったからです。

もともと、キャッチボールだってそうですが、
ボールって投げるだけで楽しいんですよね。
「みんなで集まってジャグリングをする」
となると、スキルを切磋琢磨する、という方向に行ってしまいがちですが、
根本的には、「ボールを気持ちよく投げたいな」という欲求を満たす部分だけでも、
ジャグリングには価値があるような気がします。
だから、高く放り投げるとか、遠くに放り投げるとか、音が気持ちいいとか、
そういうジャグリングにある「爽快感」みたいなものを
もっと味わいたいな、と
みみずくんと話す中で思いました。

2018年4月17日火曜日

第48回 ジェイが、7フィンガーズの『ロフト』に出ていたこと



ジェイ研究みたいになってきました。
なんにせよ、現代のジャグリングを読んでいくとっかかりとして、
ジェイはとても重要な人物だと思います。

先日のBevisと同じカンパニー"Kapsel"名義で行なっている
Blickを観た感想を書こうかとも思ったのですが、
こちらの動画を見つけてちょっと驚いたのでひとまずこれについて。

The 7fingersの『Loft』という作品の、ドイツで行われた2005年公演です。
この動画の公開は2016年。
『Loft』は、生活感とサーカスを掛け合わせたような作品です。
観客が冷蔵庫の中から出てきたり、
楽しい仕掛けも満載。

その作品にジェイが出ていたのが驚きでした。
ジェイは「硬派」な人間で、あんまりポップなものとは関わりがない、とか
勝手なイメージがあったのかも。

実際はジェイはカメレオン的に色々やっていることが
インスタグラムや、その他の媒体から伝わってくるのですが。

どういうタイプのジャグリングがあるのか。
どういう場でジャグリングを発表するのか。
発表されるジャグリングと、発表されないジャグリングがあるということ。

今日頭をよぎったのはそんなことでした。


2018年4月16日月曜日

第47回 5Catchesに「もう書いてあること」/ 先人の知恵

ジャグリングの「研究」について考えています。
昨日の夜、なんとなしに本棚からジェイの著書『5Catches』を取り出して読みました。
こんな一節を見つけました。


"(...) The availability of cheap, mass-produced props leads to a culture of not what is being used, but how things are used-(...)"
筆者訳:安価な大量生産のジャグリング道具が手に入るようになったことで、「なに」を使うかではなく「どうやって」使うかが問題になるようになった。

この本をよく読んでいなかったために、今まで見落としていた。

このことは、僕がジェイ・ギリガンについて書いた卒業論文で提起したことの
一端でもありました。
「今世の中に広まっているジャグリング道具が画一的なのは、
ジャグリングが広まるためには『道具が画一化する必要があったから』」
である、ということを言いました。
つまり、同じ規格の道具で、「自分にはこれができる」ということが
趣味/競技ジャグリングの焦点とされてきたわけです。

なんだ、ジェイ自身が書いていたんじゃないか。
やはりまだまだ、とんでもないくらい研究不足だな、と思いました。
まずはやっぱり、学問の王道のごとく、先人の知恵を知るところから
始めなければならないな、と思います。


2018年4月15日日曜日

第46回 ジャグリングで「いまおこなわれていること」をより広く知ることについて



昨日に引き続きジェイの話から始めます。
Bevisの関連から、こんな動画を見つけました。
1時間もあったので、ざっとだけ見ました。

ジェイがジャグリングのヘッドティーチャーを務める
サーカス学校DOCHでおこなわれた、
『音楽とジャグリング』というコースの成果発表会のようなものです。
おそらく通常のコースとは別で、
特別クラスのような形で短期でおこなったものだと思われます。

思ったことがふたつあります。

ひとつは、
ボールにセンサーを埋め込んで、
Bluetoothでプログラムされた音楽機器につなぎ、
音をランダムで再生する
というアイデアを、「実際に実現させる」のは素晴らしいな、ということ。

今あるものに対して多くを「語ったり」
新しいものを「考える」のはよくあることです
(簡単ではないかもしれないけど)。
しかしそこで本当にオルタナティブを作ってしまうところが、
やはり真の行動だよな、と思います。
気が引き締まりました。
さすがです。

そして思ったことのもうひとつは、
この動画が昨年11月のものだったということについてです。
つまりこういう面白い実験を、全然知らなかったということです。
(ジェイのことだからこんなようなことをやっているんだろう、
というのはわかっていましたけれども)

僕もジャグリングのシーンを知ったような顔して語っていますけど、
全然知らないんですよね。

知らなきゃいけないのは、もちろんジェイのことだけではありません。
色々な国の、色々な人たちが持っている可能性と、
今おこなっていることについて、知りたいなと思う。
一体あとどれだけ勉強しなきゃならないだろう、と少しぞっとしました。
しかし同時に、もっと勉強しなきゃ、と熱意も湧いてきました。

そこにはさまざまな、「ちょっと立ち止まって考えたいこと」もあります。

まずそもそも「知ることはなにはともあれ大事なことだ」というのは真なのか。
先日腹話術師のいっこく堂のインタビューを読みました。
唯一無二のパフォーマーになるための、「独学」の大事さを説いていました。
彼は「師匠について学ぶこと」について話しているからちょっと違うんですが、
しかし他の人がどんなジャグリングをしているのか知る、ということは、
かえって「影響されること」になりはしないか、と思ったりもする。

僕の腹話術は、すべて独学です。なぜなら僕が目指したのは“腹話術師”ではなく、“誰もやったことのない芸を披露する腹話術師”だったからです。弟子入りをすれば、まずは師匠の模倣から始まります。いずれオリジナリティが出てくるにせよ、そこかしこに師匠譲りの技術が顔を出す。真に唯一無二を目指すには、独学という選択しかあり得なかった。
(上記サイトより引用)

けれど、とりあえず知るための手段が用意されていることは、
とにかく無駄ではないよな、とも思いました。
つまり、知ろうと思えば、知ることはできる、という状態です。

そして、その知るための手段は、
「インターネットによって全てのリソースが誰にでも開かれている」
ということだけではダメなのだ、と思います。

その中で「なにを取捨選択したらいいのか」がわからないからです。
なにが大事なのか、ということが、
あらかじめ誰かの眼によって一度淘汰された中から、
大事な情報が、編集された形で
簡潔に伝わってくるのが大事だよなと思います。

こうやって書くとそんなの当たり前だよ、と思いますが、
タイムラインに流れてくる情報を
受動的に受け取るだけで精一杯になってきた時代で、
昨今そういうことの大事さはむしろ増しているような気がします。

2018年4月14日土曜日

第45回 『Bevis』を観て

現代のジャグリングを語るには欠かすことのできない2人、
ジェイ・ギリガンとエリック・オーベリによる
"Bevis"(べヴィス)という作品のフルバージョンがYoutubeで公開されました。



以下は、ジェイのフェイスブックに載せられていた解説です。

Erik and I have been performing this show since 2014, mostly at schools in Sweden. We usually link it directly into a workshop with the kids, which gives an overall ending to the show itself. In the workshop we teach juggling without the need for the audience to have any props. This film documents the project up until the point that we interact directly with the audience. "Bevis" was specially made to play in any room that has minimal ambient distractions, and with ordinary everyday lighting. "Bevis" means "Evidence" in English-

筆者訳 Translation by author 
これはエリックと2人で、主にスウェーデン各地の学校を舞台に2014年から披露している演技です。
通常は、演技のあとに子供向けのワークショップを行い、ショーを締めくくります。
ワークショップでは、子供たちに、道具を必要としないジャグリングを教えます。
この動画では、そのワークショップに入る直前までの部分を撮影しています。
"Bevis"は、「気を散らす要素がない、自然光が入る部屋」で行うことを想定して作った演技です。
(スウェーデン語の)Bevis とは、英語で「証拠」という意味です。

Kapsel HP

30分弱と少し長いです。
大まかな部分だけ観たい、という方はこちらをどうぞ。



とてもいい作品だな、と思いました。
理由はいくつかあります。

筆頭に来るのは、ヴィジュアルと音楽の心地よさです。
軽やかな動きと、優しい表情。
シンプルな服装。
道具の配色、素材のぬくもり。
穏やかな音楽と、力の抜けた、コミカルなドラの音。

この演目は図書館のようなスペースでやることが多いそうです。
その意表をつく「場所の面白さ」と、
ドラの音が鳴り響くところの「静けさを活かした演出」、
やおら鉛筆を3本組み立てて、その上でコップを載せるところのような
準備にしっかり時間をかけて見せるところ、
パターンを丁寧に見せていって「分からせる」やり方など、
環境の特質が生かされていて、とてもいい効果を出しています。

演目を「子供のために見せて」「ゆったりとした質感」を伝えるということが、
すごくはっきりしています。
下の短縮版では、子供達が喜んでいる様子が伝わって来ますが、
反応がすごく自然です。

「ジャグラーとして持っている技術を、いかに作品に昇華するか」
という点で特に非常に学ぶところの多い演技だ、と思いました。

これだけ丁寧な作品を作れる2人を、本当に尊敬します。
なんだかとても嬉しくなってしまいました。

2018年4月13日金曜日

第44回 批判的な道具(クリティカル・プロップス)について



道具についてとやかく言うのは簡単だけど、
やっぱり実際に作ってこそ面白いよな、と思いました。
こういうジャグリング道具があるとどうなるのだろう、と思ったら、
形にしてみる。

それによって「全く新しい面白いジャグリングが開ける」
ということは目的ではありません。
もちろん、偶然面白いジャグリングが見つかってしまう可能性も
なくはないのですが、それは副次的産物として、
そもそもジャグリング道具の選択肢の幅って狭すぎるよね、という事実を
常に念頭に置いておくために、
実際に既存のジャグリングでは通常使われていない
形、素材、色、コンセプトで道具を作ってみる。

僕が最近気になっているのは、
主に素材のことです。
ジャグラーは常にモノを使っていますから、
「触れたくなる」
「触れる喜びがある」道具を作ってみたいなと思います。

これは面白そうだぞ、と色々妄想が膨らみました。

そもそも流行ることすらも目指していない道具、
というのはなんだかいいな、と思いました。

2018年4月12日木曜日

第43回 淡路島にも行ったことがない



淡路アートサーカスフェスティバルです。
島で「アート」というとやっぱり香川の直島のイメージが強いです。
こういうイベントをきっかけにして、日本を回ってみたいなと思います。

この頃人と話していて気がつくのだけど、
あんまり日本の地方に出たことがない。

2018年4月11日水曜日

第42回 外でジャグリングすることの気持ちよさ。

体育館でじっくりノートを取りながら
練習メニューに沿って計画的なジャグリングをするのは、
じれったいけれど着実に成長する楽しみがあります。
床も綺麗なので、道具が汚れません。

近所の体育館がいつでも使えので、
最近は頻繁に体育館でジャグリングをしています。
なるべく予定を組んで、一日おきに
2時間くらいは体育館で練習したいなと思っています。

まぁなかなかそうも行きませんが。

Naoya Aokiさん(@jugglernao)がシェアした投稿 -
 
甘いよなあ、と思いつつも、
春になって暖かくなったので、
「まぁ今日は外で30分ぐらい練習すればいいか」
と肩をすくめて思ったりします。

いざ外に出て風に吹かれながらジャグリングをすると
実に気持ちがよくて、
やっぱりちゃんと外に出ないとダメだな、とか
ゲンキンに思ったりします。

「ジャグリングをする」という自分なりの理由で外に出られるのは、
けっこう幸せです。

フォレスト・ガンプみたいに意味もなく走り続けるのも憧れるけど。

Naoya Aokiさん(@jugglernao)がシェアした投稿 -
しかしこういうことも起こります。 

2018年4月10日火曜日

第41回 いやちょっと待て、どれだけ豪華なんだ、IJC

 イスラエルで毎年開かれているジャグリングコンベンション、IJCが今月5日に終わりました。
 気になってゲストの面々を見てみたんですが、めちゃくちゃ豪華ですね。
 http://www.ijc.co.il/Convention/ijc25/guest-artists/

 イスラエルには長らく行ってみたいと思っているんですが、まだ行っていません。
 今年に限らず毎年ゲストは豪華だし、コンベンションの会場についても、色々な人から、いい印象しか聞きません。「会場には川が流れていてね」とかなんとか、とにかく綺麗なところだ、ということです。
 
 海外のジャグリングコンベンションって、なんでこんなに魅力的なんでしょう。
 もちろん、海外にいく、という行為そのものに魅力があるんでしょうけど、それに増して、自分がこんなにも面白い人たちと一緒の共同体で、ジャグリングをやっているんだ、という満足感は他には替え難いです。
 なんども繰り返し語ってきていますが、やっぱり僕のジャグリングに関する情熱を一番駆動しているのは、ジャグリングを通して海外の空気に触れることなのだ、という気がします。

 イスラエルってどんなところなんだろう。

2018年4月9日月曜日

第40回 同じテーマで

 渋谷のBunkamuraで行われている、猪熊弦一郎の展覧会『猫たち』に行ってきました。もともと猪熊さんの絵は、香川の丸亀駅前にある美術館を訪れて以来ずっと好きでした。東京にくるというので、出かけてみました。
 様々な猫たちの絵があって、その量にはちょっと呆れてしまいます。

 展覧会に行く前に、このサイトを読んでから行ったのですが、1000枚で一単位、ということをおっしゃっていたようです。
 http://www.1101.com/inokuma/2018-02-22.html



 アイデアとか練習は、うまくいかないと「この方法はダメなのかな」と思ってしまいがちですが、単に量が足りないのだ、と考えろと言われているようでもあります。
 なんだか勇気付けられました。

2018年4月8日日曜日

第39回 『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 5

 「ジャグリング」ということば単体について何日間か連続して無理にでも書こうと思ってみてわかったのですが、湧き出てくるアイデアは、実践されてこそ意味がありますね。

 目下、ジャグリングに関する考えを共有、発信していく場所、「Juggler's Base」というものについて何人かの仲間と一緒に考えています。そこで実践されることが、そのまま「ジャグリング」ということばを取り囲む状況について考えることになっていくのだろう、という気がしています。なので、このあたりでことばだけについて考えるのは一旦終了とします。意味がないわけではないんですが、もう少し次に繋がることについて書いてみたいので。
 さて、というわけで今日はオブジェクト・エピソードで見つけた面白いトピックについて。
 404errorという人が立てたこのスレッド。
 Juggling and Wayne McGregor’s project ”Thinking with the body” http://objectepisodes.com/t/juggling-and-wayne-mcgregors-project-thinking-with-the-body/530


 ウェイン・マクレガーという振付家が、具体的な形(TEDの「T」とか)を、どういう風に即興でダンスに翻訳していくか、ということを語っています。そこで、ジャグリングでも似たようなことができないか、という提案。
 ダンスとジャグリングには多くの共通点があるし、学べることもたくさんあると思います。ジャグリングでも、ほとんど否応無しに体は提示していることになっていますから、ダンスについて全く何も知らないよりは、やっぱり知っている方がいいんじゃないかと思います。
 このビデオの具体的な例で言えば、文字を頭に思い描いて、実際にステージの上にも思い描いてみて、それをジャグリングでなぞって表現する、というのは、振り付けを作る方法として有効です。

 こういう方法論をすんなり受け入れるためにも、「ジャグリング」という語義を、常に広く捉えておくのは大切だな、と思います。「それは僕のやるジャグリングじゃないから」とあんまり早く判断してしまうのは、もったいないと思うからです。
 もちろん、ダンスの方法論をほいっとジャグリングに適用したらすぐに面白いものが生まれる、というわけにはいかないでしょう。それは結局ただの援用の域を出ずに、中途半端なものしかできないような気がします。
 でも、その理論とか、考え方をよく学んだ上で、ジャグリングでそれを再現してみて、さらにそれをジャグリング特有の表現みたいなものに昇華できたら、きっと面白いだろうな、と思います。(自分で実践していないし、今思いついただけなので、実際にどうなのかはわかりませんけども)
 
 ダンスとジャグリングの組み合わせ、ということでパッと思いつくのは、ガンディーニジャグリングです。
 カンパニー代表のショーンは、バレエや、トリシャ・ブラウン、マース・カニンガムといった人たちのダンスに魅せられていて、それをジャグリングと掛け合わせた時の、二つの分野同士の対話を楽しんでいる人です。(2016年に行ったインタビューで語っていた。)
  
 時々、ジャグリングの外にインスピレーションを求めると、結構ワクワクします。

2018年4月7日土曜日

第38回『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 4

 「ジャグリング」と言う行為は、基本的に「モノ」があることによって発生します。
 最近は、「モノ」を起点に考えるのが、ジャグリングの研究の、とにもかくにも王道だよな、と思う。モノがないジャグリングというのは想像できないからです。(でももしかしたら、モノが一切ないけどこれはジャグリングである、と、多くの人が認めうるようなものが、「あるけど誰もやっていない」だけかもしれないので、完全にないとは言い切れない)

 ジャグリングにおいて、「モノ」を起点に考える、とはどういうことか。
 たとえば、現代のジャグリングでは、使われる道具が画一的だよな、と思ったとします。それにはきっと理由があるはずだよな、と考える。
 理由について考えだすと、多様な考察ができます。道具が同じで、技術が違う(それを扱う能力の差異を浮き彫りにさせる)ことを目指されているんだろうな、とか、なんでこの形に落ち着いたんだろうな、とか、「ジャグリング道具のお店」という機構は間違いなく大きな役割を演じているよな、とか。
 「画一的な道具を量産できる」とはどういうことなのかについても考えが及びます。それはそこに、需要があるということであって、供給するだけの技術や、経済基盤がそこにある、ということでもある。要はジャグラーは多いし、「ジャグリング市場」でお金も回っているということですね。
 昔の「ジャグリング」(ここでは、「ジャグラー」という共同体を囲んでいた社会的様相のことではなくてその行為そのもの)について考えたいな、と思ったときも、まず道具について考えるのが一番最初だろうと思います。
 クラブジャグリングの起源を考えたいとする。あれはなんであの形を投げるようになったんだろうか、ということに思いを致したのちに、うーむ、じゃあこの時代ぐらいがおおよその起源だとして、なぜ棍棒がジャグリングされるようになったのか、と、社会的な歴史の研究に入っていける。きっかけになるのはモノです。
 50年ぐらい前のサーカスジャグリングだと、「皿」を投げていたりして、(リングではなくて、皿)昔はそれを使っていて、いまは使われないその理由ってなんだろうな、とか考えられたりします。あとは、道具は手作りしていたんだよな、とか。
 とにかく、行為としての「ジャグリング」について考えるとき、そこには、モノを起点にして考える、という、重要なヒントがあるんだよな、と思います。
 ジャグリングというのは、「モノがジャグリングされた」という受動的な状態を、ひとえにその行為の認識の端緒としているんでしょうね。
 モノが何かしらの影響を受けて、状態が変わったときに、それをジャグリングと呼びうることが多い。
 その次に、そのモノを扱う身体、が勘定に入って来る。

2018年4月6日金曜日

第37回『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 3

 僕が雑誌でカバーしたいと思っているジャグリングはなんでしょうか。
 「ジャグリングの雑誌」というと、そのカルチャーを紹介する、というイメージが僕にはあります。「今、ジャグリングでは何が起こっているかということの概観」みたいな。そういう全体像は、僕にもまだ全然掴めていません。
 だから自分自身がジャグリングをもっと理解するためにも、なるべく「ジャグリングをする人たちの共同体」とはどんなものなのか、その地域差、年代の差、過去の話など、研究した方が良いだろうとおもっています。
 でも同時に、「ジャグリングをする人たちの集まり」についてだけ語りたい訳ではないようです。わざわざ「書く」ジャグリングの雑誌とついているのは、僕が行為としての「ジャグリング」について、きちんと考えて、ジャグリングという言葉でくくれることをもっと増やしたいな、と思っているからです。そのために、もう少し分析的な文章を蓄積したいなと思っていたからです。
 たとえば、ボールはなぜ丸いのか?(なぜ丸いボールが、ジャグリングをする人たちに選ばれているのか?)とか、ジャグリング道具の素材について、現行の素材が使われている理由の研究とか。もしその素材の選択に他の余地があるならそれもみてみたい。
 僕たちが「ジャグリング」と呼んでいる行為の正体に迫りたいな、と思っています。そして具体的に読める形で開かれていれば、それをもとに、考えを深めることができるよな、と思う。

2018年4月5日木曜日

第36回『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 2

 僕が「ジャグリングの雑誌の編集長をやっている」という文章について考えてみます。 
 「ジャグリングの雑誌」ってなんなんでしょうか。僕にもはっきりとわかりません。
 このことについてしっかりと考えたことはあまりなかったような気もします。
 一体ここで指されている「ジャグリング」とはなんなのか。
 
 遡ると、15歳の時に「ジャグリング」に出会ったところに行き着くような気がします。なぜかといえば、その時に「これがジャグリングだよ」と言われて紹介されたものに、僕は身を入れ出して、その後そのキーワードを元に、「ジャグリング」を巡る世界をみてきたからです。
 そしてその延長に、僕が卒業論文で「ジャグリング」について書くことがあったし、それをきっかけに、「書くジャグリングの雑誌:PONTE」は誕生しました。
 
 お店に行ったり、公演を観に行ったり、サークルに入ったり、海外のフェスティバルに行ったり、ジャグラーの友達を作ったり、色々なことを経てから、PONTEにたどり着きました。これら全ての根底には、自分は「ジャグリング」に関心があるんだ、という半ば自己暗示のようなものがあったようにも感じます。
 少なくとも中学生の頃から数年は、特に心に正直に聞いて、「自分がやりたい」と想っていることを考え抜いてジャグリングを選んだ、という感じではないです。(今はそうなのか、と聞かれたら、黙って見つめ返すしかありません)

 特に最初の頃は、「ジャグリング」と名のつくものには、とにかく敏感でした。図書館でもジャグリングの本を検索してみたり、シルク・ドゥ・ソレイユに関心が向いたのもほとんど「ジャグリング」という興味を以ってのことだし、別にそれが実際に面白いとか面白くないとかに関係なく、とにかく「ジャグリング」という言葉そのものに何か自分を寄せていたように感じます。
 自分が「ジャグリングのウェブサイト」に紹介されている技を練習するのははまっていた、誰に言われるでもなくやっていましたから、それは間違いなく好きだったのでしょう。でも、なんでもかんでも「ジャグリング」を拾い集めていたのは、果たして自分が主体的に何かを選んでいた結果だったのだろうか。(サークルに入ったこととか、論文を書いたことでさえも)


 今は、昔に比べたらきっと「ジャグリング」という言葉に対してもっと批判的だろうし、距離があるし、また距離は近いと思います。
 自分の立ち位置を、冷静に測るように注意しているようにも思います。

 わかりづらいですけれど、例えば僕は今人類の歴史に関心があるんですが、人類として生きる中で、「ジャグリング」と呼ばれるものに多くの時間を割いて人生を過ごしている自分は、一体人類700万年の歴史の中の、どういう位置に措定することができるのか、それがわかりたくて、本を読んで勉強する、という程度には、「ジャグリング」という言葉とそれにまつわる自分の行動を離して見ようと思っています。
 同時に、「人類」とかそういう白けちゃうようなことを言うんじゃなくて、ジャグリングの、スキルを純粋に磨く部分って、面白いよな、と理解しようとも努めています。

2018年4月4日水曜日

第35回 『ジャグリング』ということばをめぐる冒険

ジャグリング、ジャグリング、と連日言っていて(書いていて)思いました。
 「ジャグリングでは」という時の「ジャグリング」は、場合によって指すものがまったく違います。
 
 純粋に行為そのものを指して「ジャグリング」と呼ぶこともある。
 大道芸でカラフルなボールを投げている人がいて、「あ、ジャグリングをやっているね」と指差して言う時のジャグリングがそれです。
 その行為について、 『あれは人間がとりうる行動として、今まで見たことがあり、聞いたことがあるラベルを用いてどのカテゴリに入れるかといえば、ウォーキングでも、スイミングでも、ボルダリングでもなく、ジャグリングだ』と、他の現象との差異を以って、「あれは『ジャグリング』である」と特定しています。
 一方で「ジャグリングではそういうことをやる人はいないね」という時の「ジャグリング」もあります。それは、「話し手が知っている範囲での、ジャグリングをやる人の共同体」という意味での使われ方です。

 今例を挙げたこのふたつ以外にも、 「世界でジャグリングをする人たち」全般の傾向について語っているのか、「自分の周りにいる、ジャグリングをする人たち」の傾向について語っているのか、話し手と聞き手でお互いにあんまりマッチしていないときだってあると思います。

 こういうことばに関する議論は、時として不毛ですけれど、少なくともそれについて考える過程で、自分の言葉に対する認識を「耕す」ことはできるだろうと思います。
 これからしばらくジャグリングという言葉について考えてみます。 一週間ぐらい考えられればいいな、と思いますが、どれぐらい続くかはわかりません。そもそも意味があるのか、ということも言えると思う。ともあれ、今自分がどの『ジャグリング』について話をしているのかちゃんと識別するのは、態度として間違っていないだろう、と思います。

2018年4月3日火曜日

第34回 ノービとの撮影

 この郵便箱にも何度か出ている(こちらこちら)ノービ・ウィットニーさん。先日、横浜で撮影をしてもらう機会を得ました。
 
photos by Norbi Whitney (クリックで拡大)

 あまり時間がない中での撮影だったのですが、とても仕事が早くてびっくりしました。僕があらかじめ考えていた撮影場所に着くと、アングルを決めて、いきなり撮影開始。さくさくと何枚か指示をもらいながら写真を撮ると、「じゃあ、次は」と言って、違ったアングルを提案してくれます。
 10分くらいで一箇所の撮影を終え、次の場所へ。あっというまでした。


photos by Norbi Whitney (クリックで拡大)

 彼から聞いた話だと、以前サーカスアーティストと仕事をしていて、ウォーミングアップ(逆立ち)をしている間に写真を撮ったら、「じゃあ始めましょう」という時には必要な写真は全て撮れていた、ということもあったそうです。
 とにかくテンポが早く、かつ丁寧な仕事をする人です。

大好きな美術館の前。

 さらに写真を撮った後の加工も迅速、精密です。今まで作品を何気なく見ていた時には気づかなかったですが、色味を変えるだけではなくて、人を消したり、看板を消したりと、いろんなことをしているんですね。その辺りは、人によってスタイルが違うのでしょうが。
 いざ自分が撮られて、この部分にはこれがあったはずだ、と知った目で見ると、いかに手間をかけて修正、調整をしているかがわかります。
 
 貴重な体験でした。もう日本は離れたようですが、またいつか世界のどこかで会えるといいな、と思っています。

ノービさんの作品はこちらより。
Web: NorbiWhitney.com
Insta: instagram.com/PhotoNorbi

2018年4月2日月曜日

第33回 道具をもっと作りたい

 一日の早いうちに書いておけばいいんですけど、なんだかいつも寝る間際に書いてしまいます。それを、だいたい朝7時に、セットして寝ています。

 今日ふと、道具をもっと自分で作りたいな、と思いました。
 きっかけは、ディアボロでバランスをやったから。もしディアボロを回さずにバランスを取りたいのなら、別に現行のスティックでやる必要全然ないよな、と思った。今あるスティックだと、やりづらいことがたくさんあります。でも、そのやりづらいこと、をやりづらい状態で達成するから面白い、と捉えるのもアリだし、それを、道具を加工していくことでやりやすくして、新たな「やりづらいこと」(要はそれを「難易度が高いこと」というのでしょうけど)を見つけるのもアリだし、どちらも権利があるな、と思います。

 これは、例えばディアボロにベアリング(回転軸。固定軸に比べてより長く回る)を使うことの是非(みたいに僕は捉えていませんが)と同じ俎上にある議論だと思います。

 道具に関する研究というのは、身を入れてやったら随分面白そうです。

ちょっと考えた

2018年4月1日日曜日

第32回 ジャグリングの「ビデオ作品」を列挙してみよう

 前にも書きましたけど、毎日書くというのは根気の勝負だなとつくづく思います。仕事から帰って来て別の仕事を2時までやった後に、さて責務を果たしたし、今日はジャグリングで何を書こうか、と目をしばしばさせていると、さすがに疲れたな、と思う。 
 まぁ自分で言ってやってんだから世話ないや。
 こういう非プロフェッショナルな態度で書ける場は、何はともあれ楽しいです。

 さて、困った時のObject Episodes。
 Juggling movies というスレッドが立ちました。
 ジャグリングを扱ったビデオを列挙してみようよ、というスレッドです。
 言い出しっぺは、Juggle Jabber という、ナイスなプロジェクトを続けるオランダ人のDaniel です。

"Juggle Jabber"はこんな感じ。インタビュイーの選択が、毎度絶妙です。一回出てみたい。

 このリストを眺めているだけでも、2006年からジャグリングをしている僕は結構懐かしい思いにとらわれます。と同時に結構見てないやつがあって、それは、ちょっと見とかないとな、とは思ってます。

Ohashi Archiveも拾われていました。
大橋昂汰さんによる素敵なジャグリングビデオです。ぜひ、ご覧くださいませ。

 
今の僕はこういうリストを見ると、やっぱり欧米中心的だな、とか思っちゃうんですけど(と同時に、そういう土俵に自分が上がって行ってるんだから当たり前だよね、とも思うんですけれども)でもまぁ本当に、「ジャグリング」って、ユーロ・セントラリズムがある程度やっぱりありますよね。アメリカもでかいんだろうけど、「ジャグリングの歴史」を語る時に、往往にしてどうしても欧米のことを多く語ってしまうことになる。「ジャグリング」という言葉自体がわざわざ英語から来た単語を使っているので、自然そうなります。
 「大道芸の歴史」とか言ったらまた違う話になるし、「器用にものを操る芸の話」と単純に日本語で言い換えるだけでも、また少し範囲が変わる気がします。
 そういうところは意外と、盲点であります。
 
 でもなんにしても、僕は英語を日本語に置き換えた単語として広く人口に膾炙している「ジャグリング」が示して来た世界を、この10年以上好きでやって来たので、やっぱり、その範囲の歴史はできるだけ広く押さえておかないとな、と思う次第です。

 ちなみに、こういう古き良きインターネット感のある、羅列系リストも僕はすごく好きです。なんか、こういうの作りたいな。イスラエルに住んでいるアメリカ人、スコットのHP。  http://www.juggler.co.il/scott/library/#videos