それらは、少なくとも外に出てくるものが何であろうと、よい、と思っている程度は同じなんだろうな、とふと思いました。
ただその思ったことを、どのように運動で外に出力するのか、というところに差異があるのだ、と。
茂木さんの講演を折に触れて聞くんですが、(私は高校の頃から茂木さんに勝手に私淑しているので、いろいろと影響を受けています)ここで、まさにこのところ関心を持っていたことをそのまんま言い当てられていました。
『種の起源』のダーウィンのひ孫、ホラス・バーローさんが、論文が書けない、何を書いたらいいかわからない、という人に対して "Why doesn't he write it and find out?" (書いて見つければいいんじゃないの?) と言った、という話から始まります。( 3:30くらい )
「行動をとることによって、自分が何を考えているかがわかる」
ということ。
「人間の脳には面白い性質があって、自分自身との対話が、外を一度経由しないと完結しない」(6:25あたり)
という、もうこれが全てを説明していますね。
逆にいうと、行動をとるまで、自分が何を考えているかわからないんだ、と。
そして「感覚学習と運動学習のループを回す」ということについて語っています。
感覚で、受動的に蓄積した情報と、逆に発信ができる能力が一番釣り合いが取れているのは、言語だ、と言います。
ははあ、と思いました。
自分の身に降ってきた例えば、「ジャグリングをしている時の環境音がいいんだよね」という感想を、言葉にすることと、それをモチーフにしてジャグリングをすることは、同じことなんだな、と合点が行きます。
ジャグリングをする方は、おそらくもっと、感覚で学んだことに近くなります。
「言葉にはできないよさ」というのは、自分が感じられる、処理できる質の情報が、一度に多量に訪れてオーバーフローを起こすことかもしれない、と思いました。
感覚では、受容することができる質が、運動で外にすぐ出力できない、その高揚感のような気がします。
ちなみにあんまり関係ないんですが、昨日、『グレイテスト・ショーマン』をやっと観ました。
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