最近は、「モノ」を起点に考えるのが、ジャグリングの研究の、とにもかくにも王道だよな、と思う。モノがないジャグリングというのは想像できないからです。(でももしかしたら、モノが一切ないけどこれはジャグリングである、と、多くの人が認めうるようなものが、「あるけど誰もやっていない」だけかもしれないので、完全にないとは言い切れない)
ジャグリングにおいて、「モノ」を起点に考える、とはどういうことか。
たとえば、現代のジャグリングでは、使われる道具が画一的だよな、と思ったとします。それにはきっと理由があるはずだよな、と考える。
理由について考えだすと、多様な考察ができます。道具が同じで、技術が違う(それを扱う能力の差異を浮き彫りにさせる)ことを目指されているんだろうな、とか、なんでこの形に落ち着いたんだろうな、とか、「ジャグリング道具のお店」という機構は間違いなく大きな役割を演じているよな、とか。
「画一的な道具を量産できる」とはどういうことなのかについても考えが及びます。それはそこに、需要があるということであって、供給するだけの技術や、経済基盤がそこにある、ということでもある。要はジャグラーは多いし、「ジャグリング市場」でお金も回っているということですね。
昔の「ジャグリング」(ここでは、「ジャグラー」という共同体を囲んでいた社会的様相のことではなくてその行為そのもの)について考えたいな、と思ったときも、まず道具について考えるのが一番最初だろうと思います。
クラブジャグリングの起源を考えたいとする。あれはなんであの形を投げるようになったんだろうか、ということに思いを致したのちに、うーむ、じゃあこの時代ぐらいがおおよその起源だとして、なぜ棍棒がジャグリングされるようになったのか、と、社会的な歴史の研究に入っていける。きっかけになるのはモノです。
50年ぐらい前のサーカスジャグリングだと、「皿」を投げていたりして、(リングではなくて、皿)昔はそれを使っていて、いまは使われないその理由ってなんだろうな、とか考えられたりします。あとは、道具は手作りしていたんだよな、とか。
とにかく、行為としての「ジャグリング」について考えるとき、そこには、モノを起点にして考える、という、重要なヒントがあるんだよな、と思います。
ジャグリングというのは、「モノがジャグリングされた」という受動的な状態を、ひとえにその行為の認識の端緒としているんでしょうね。
モノが何かしらの影響を受けて、状態が変わったときに、それをジャグリングと呼びうることが多い。
その次に、そのモノを扱う身体、が勘定に入って来る。
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