2018年4月5日木曜日

第36回『ジャグリング』ということばをめぐる冒険 2

 僕が「ジャグリングの雑誌の編集長をやっている」という文章について考えてみます。 
 「ジャグリングの雑誌」ってなんなんでしょうか。僕にもはっきりとわかりません。
 このことについてしっかりと考えたことはあまりなかったような気もします。
 一体ここで指されている「ジャグリング」とはなんなのか。
 
 遡ると、15歳の時に「ジャグリング」に出会ったところに行き着くような気がします。なぜかといえば、その時に「これがジャグリングだよ」と言われて紹介されたものに、僕は身を入れ出して、その後そのキーワードを元に、「ジャグリング」を巡る世界をみてきたからです。
 そしてその延長に、僕が卒業論文で「ジャグリング」について書くことがあったし、それをきっかけに、「書くジャグリングの雑誌:PONTE」は誕生しました。
 
 お店に行ったり、公演を観に行ったり、サークルに入ったり、海外のフェスティバルに行ったり、ジャグラーの友達を作ったり、色々なことを経てから、PONTEにたどり着きました。これら全ての根底には、自分は「ジャグリング」に関心があるんだ、という半ば自己暗示のようなものがあったようにも感じます。
 少なくとも中学生の頃から数年は、特に心に正直に聞いて、「自分がやりたい」と想っていることを考え抜いてジャグリングを選んだ、という感じではないです。(今はそうなのか、と聞かれたら、黙って見つめ返すしかありません)

 特に最初の頃は、「ジャグリング」と名のつくものには、とにかく敏感でした。図書館でもジャグリングの本を検索してみたり、シルク・ドゥ・ソレイユに関心が向いたのもほとんど「ジャグリング」という興味を以ってのことだし、別にそれが実際に面白いとか面白くないとかに関係なく、とにかく「ジャグリング」という言葉そのものに何か自分を寄せていたように感じます。
 自分が「ジャグリングのウェブサイト」に紹介されている技を練習するのははまっていた、誰に言われるでもなくやっていましたから、それは間違いなく好きだったのでしょう。でも、なんでもかんでも「ジャグリング」を拾い集めていたのは、果たして自分が主体的に何かを選んでいた結果だったのだろうか。(サークルに入ったこととか、論文を書いたことでさえも)


 今は、昔に比べたらきっと「ジャグリング」という言葉に対してもっと批判的だろうし、距離があるし、また距離は近いと思います。
 自分の立ち位置を、冷静に測るように注意しているようにも思います。

 わかりづらいですけれど、例えば僕は今人類の歴史に関心があるんですが、人類として生きる中で、「ジャグリング」と呼ばれるものに多くの時間を割いて人生を過ごしている自分は、一体人類700万年の歴史の中の、どういう位置に措定することができるのか、それがわかりたくて、本を読んで勉強する、という程度には、「ジャグリング」という言葉とそれにまつわる自分の行動を離して見ようと思っています。
 同時に、「人類」とかそういう白けちゃうようなことを言うんじゃなくて、ジャグリングの、スキルを純粋に磨く部分って、面白いよな、と理解しようとも努めています。

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