2018年10月1日月曜日

第214回 「ジャグリングがあれば言葉はいらない」のか(ジャグリングがつなげるものシリーズ)

みなさん、台風、大丈夫でしたか。

※ ※ ※

ジャグリングが、いろんなことをつなげてきました。

昨日は千葉まで行って、パフォーマンスをしました。
ご馳走になったフランクフルトが美味しかった。
ジャグリングが僕とフランクフルトをつなげた。

さて、僕が「ジャグリングがつなげるもの」と言って一番強く感じるのは、ジャグリングを起点にした、海外とのつながりです。
文化の違うところに行くと、必然的に「よそもの」として入ることになりますが、その時、お互いがジャグリングをする、という共通項があると、氷をブレイクしやすい。
そういう意味で、ジャグリングはコミュニケーションの大きな助けとなります。

でも、だからといってそれで完結するわけではない、と僕は思います。

一方では、「ジャグリングがあれば言葉はいらない」とか、「ジャグリングがあれば通じ合える」とかいう言い方をされることがあります。
僕はそう言い切ってしまってはいけないと思います。

「言葉なんかいらない」と言い切ってしまうと(いや、そう言いたい気持ちはすごくよくわかるんですが)そこから先にある、「言葉が通じる」ということの何倍もの豊穣が、見えなくなってしまうからです。

実際には、「ことばが通じる」ということはとても、とても大事です。

ことばが通じなくても、仲良くすることはできるし、むしろ言葉なんか下手に通じない方が、仲良くできることが多いかもしれないです。
ことばがなくても、感動を届けることはできます。
でも、人と通じ合う、ということは、仲良くしたりポジティブに感動したりすることだけではないだろう、と思います。
僕はそう思って、ちょっとでも外国語を勉強しようとつとめている。

お互いに通じる言葉で、喧嘩をしたり、議論をする。
その度悔しい思いをしたり、分からないなぁ、という部分だってたくさんあるから、少なくとも、理解できるようにがんばろう、とおもうし、「才能がない」とかふにゃふにゃ言わずに、自力でなんとかしようとします。
ワークショップを受けていても、本人が伝えようとしているニュアンスをそのまま受け取れたら、どんなにか素敵だろう、といつも思う。
英語というとりあえずの媒介ではなく、本人の母国語を理解できたらもっと楽しいだろう、ともいつも思う。

至極当たり前ですが、「考え」のやりとりを通して学ぶことは、とても多いです。

現実的には、さすがにたとえば外国語をスムーズに理解できるようになり、発信もできるようになることは、すぐできることではないです。時間がかかります。
だいたい、本気で外国語学習が嫌いだったり、苦手な人だってたくさんいます。
だから別に外国語を勉強せよ、と言うつもりは全然無いのですが、でも、「ことばはいらない」と言い切ってしまわず、「ことばが通じるようになんとか払う努力」や、「ことばが通じることの豊かさ」に対して余地を残しておく方が、よりよい、ものの言い方じゃないかな、と思うことはあります。


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