2018年12月23日日曜日

第287回 「サチる」まで待つ。

「サチる」というのは、飽和する(saturation)を日本語の動詞化したものだ、というのを以前どこかで読んで、ああ、なるほどねえ、と思っていた。工学系の人は、普通に使っているんだろうな。

それで、「もう、十分準備ができたので論文を書き出すことができる」というような意味で、学生の間でもつかわれる、というようなことも読んだ。

僕自身は、それを日常的には使わない。
使わないんだけど、時々こころの中で、「もうサチっているかな」と自分に聞くことがある。(「外には出さないけど、こころの中では、自分に対して使っていることば」ってありますよね。)
それを使うのは、主に文章を書く前である。
文章を書く時、なるべく一気に書き上げてしまいたい。
それは、何かを書くというのが、たとえば映画を見て、それについて何か興奮している、その時の気分だからこそ語りたくなることがあるのと同じで、何か自分の中で、無意識に蓄積しているものが「サチった」時、ばばーっと、一気にあふれださせないと、もう次机に向かった時には同じ質のものが出てこない時があるからだ。

ちょうど、思考の内容というのは、日が昇ってから暮れるまでと同じくらいの速さで変化するような気がする。朝5時に考えたことと朝5時半に感じていることはそれほど違わないが、朝5時に考えたことと、10時に考えたことでは、けっこう、毛色が違うような気がするんだな。夕方5時に考えたことじゃあ、もうまるっきり違ってもおかしくないよ。

僕はいつも、たとえば日陰に荷物を置いた時なんかに、普段は意識しない、太陽の動くスピード(まぁ、動いてるのは地球か)にびっくりする。
ちょっと目を離していたら、もうその荷物が日の当たるところにあったりする。

まぁそれで、いつでも、その、ばばーーっと一気に書けるような状態ではないのである。「サチっている」時に、そのひとつの気分の中で、多少のかさのあるものをかける。

そういう意味で、僕はなるべく多くのことで、「サチる」まで待ちたいなぁと思う。

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