2018年12月23日日曜日

第279回 エッセイなんか世間話だ

 佐野洋子さんという絵本作家がいる。いた。『100万回生きたねこ』の作者である。その佐野さんのエッセイ集『ふつうがえらい』をひっぱり出してきて読んでいて、あとがきにこんな文句があった。

基本的にエッセイというのは世間話と思っている。
 佐野洋子は実に正直なことを、そのまんま書く人だ。いいよな。言葉の概念が先に立って、それを組み合わせて書いている人ではなくて、実感を言葉に置き換えて、それを書き留めている感じがありありとあるよ。いいよな。なんというか、心のヴォイスがそのまま語られている、「直接話されている感じ」がある。だから、その「世間話」というたとえが余計にしっくりくる。

 僕は大学生の時に、「どこかの旦那衆のくそブログのような文章を書いてるんじゃない」という主旨のことを、教授からけっこうキツく言われた。
 それを言った教授は僕がすごく信頼している人であったから、コメントそのものが与えた負担はあったものの「それもそうだよな」と思った。自分でもその軽薄な文章は、大事なものを何も載せていないよな、と思った。(会田誠の『カリコリせんとや生まれけむ』に触発されて書いた文章だった、そうそう。あの本は今でも好きです。)
 それで、いまでもその言葉は心に深く残っている。

 そして、その深く残っていることが。

 割に、僕の足を重くしていたかもしれないなぁ、と思う。

 そういう風に言われて以来、なんだか「雑文」を書くことに一抹の抵抗があった。雑文を書くことそのものに、なんだか不安があった。それで、エッセイなんか所詮世間話だ、という逆にはっきりとした決意のもとで堂々と自分の雑感を書き留める、ということがどれだけ楽しいか、ということを、忘れていた。同時に、巷で見かける雑文を、心の中では「旦那衆のくそブログ」のようなものとして軽んじるようになっていた。

 雑文が悪いというのではないのだ。その文章を書くのに、本当に「分からない」ことを知ろうとしているか、その文章は、分からない地点から、さらにその先に進むための道筋であったのか、そういうことが重要なのだ。

 僕はもっと雑文を書こうと思う。世間話をしよう。そして世間話よりももっと大事な話を、それ以上に力を込めて、書き留めていこう。



 あ、で、俺あれなんだよな、『100万回生きたねこ』ってたぶん読んだこと、ない。

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