2018年12月23日日曜日

第283回 「自分を表現する」というのは、要するに「自分の頭の中にあることを見える形にする」ということだろう


よく「〜〜で自分を表現する」という言い方がありますが、これはいったいどういうことなのか、考えました。

まず結論を言ってしまうと、自分を表現するというのは、要するに「自分の頭の中にあることを見える形にする」ということだろう、と思った。

「想像力を発揮する」という言い方に僕は何か言い切れていない感じを受ける。それは、「想像力を発揮する」という言い方が、さも頭の方の運動であるような感じがするからだ。知恵を搾る、というようなイメージがあるからだ。実際には、むしろ力まない状態で頭の中にふわふわとしているものを、的確にたぐりよせて、それに一番近似的な形を与える、ということが「創る」ことの本質なんじゃないか。つまりどっちかというと身体の方の運動だ。

別の点を指摘すると、「発揮する」という言い方に、どうも爆発的なイメージがついて回るのがいけない。
本当は、想像力は「発揮する」というより、「向き合う」ものじゃないか。想像されているそのもわっとした像の(あくまで便宜的な言い方ですが)眼をしっかり見て、流れを阻害しないように話を聞いてあげる、というような、慎重なプロセスであるような気がするのだ。

そして僕はいつも、その時のプロセスを歯がゆく思います。

本当は、自分の頭の中にあることって、もっと混沌としているし、形がありません。で、でも、その形がないものに、なんとか形を与えて、「そのもの」を表現したい、と思うわけですね。なるべく忠実に。その時、僕はいつも「すでに世の中に存在するもの」を借りて、つまり自分の肉体なり、目の前にあるジャグリングボールなり、日本語という言葉なり、この、今京浜東北線の車内で打っているキーボードなり、すでに確固たる形があるものを使って、鋳型に流し込むように、あるていど決まったフォーマットに入れないといけない。それが、自由なようで、全然自由じゃないような気がするのだ。

しかし同時に、人類がみんな、そういう土俵で勝負しているんだ、これはむしろ早々に認めないといけないことなんだ、と思えば、なるほどね、じゃあ、そうか、この「自分を表現する」というあそびは、結局「無限の自由」というよりは、「星の数ほどの有限の組み合わせで遊ぶこと」なのかもしれん、といっかい腹をくくるべきなのかもしれない。

PS:このページ↓を見ていたら、そんなことを思った。

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