2018年11月3日土曜日

第246回 Awaji Art Circusのレポートを書いたことを報告しようと思ったらなんだかこんな文章が出来上がってしまいました。

先月半ば、関西の淡路島に3日間だけ行って、Awaji Art Circus というイベントを追った。そのことについては、以下の記事で読める。

ジャグリングの郵便箱 淡路島編
1日目
2日目
3日目

その間のことを、英語で書いて、アメリカのサーカス雑誌Circus Talkに寄稿しました。(こちら
というか、これを書くために行ってたんですよね。
上記の、ブログに載せた日記は、ただの副産物。


自分の書いたものが形を整えられて綺麗に公に出るのは、誇らしい経験です。
英語で、一応それなりの記事を書き上げたことも誇らしい。

もちろん、こんな程度の長さの記事を書いて喜んでいるのは「マダマダ」だ、ということは承知しているんです。
本当にジャーナリズムで食っている人は、これくらいのものを見たって、「なんだい、これくらいでいい気になって」と思うだろう。
英語だって、なんだか、不恰好だし。
これを毎週、いや、3日にいっぺんぐらい書いていて、しかも巧みな英語を使って表現できているなら、あるいはもう少し誇りに思ってもいいのかもしれないけどね。

しかし少なくとも、今この時点ではこれはひとつのちょっとしたハードルだった、ということは言えます。
それに、嘘はない。

ひとつ越えたので、次はもっと大きいハードルに挑戦してやろうか、という、意欲も湧いている。
意欲と言うよりも、責任感、緊張感、に近い。
「これぐらいのことはできるのだから、もっと社会的に見て「いいもの」を多く作れるはずだ」という。

そして、こういうハードルは、「次のハードルに挑み続ける」ことで、はじめて、「生きて行く中でなすべきこと」としての資格を与えられるのだ、とも思う。

どういうことか。
つまり、「具体的な大きなハードルを越える」ことは、人生が仮に70年続くとした時、持続的な生きるモチベーションではないから。
「お金を儲ける」だろうが、「親に孝行をする」だろうが。

いや、それ自体は、とても素晴らしいことです。
でも、それは、より大きな上部の「確固たる方針」の枝葉として伸びているものでないといけない。
なぜならだいたいの「いいこと」はよく観察すると、「局所最適」だからです。
特定の歳だったり、特定の立場、特定の政治的状況にいる時だけ有効な目標だから。
お金を稼ぐことだって、もし「貨幣経済」への依存を弱める方向に自分を持って行きたければ、必ずしも是ではない、と本気で思う。屁理屈で言ってるんじゃなくて。
そういう「局所」に「人生にとっての是」を設定してしまってはいけない、と最近は自分に言い聞かせるようにしています。
これからどう転ぶかわからない人生のスパンすべてに敷衍することのできる、なるべく力強く、揺らぎのないテーゼを持ちたい。

「結局大事なのはお金ではなくて、元気に生きるのが幸せだから、それを目指す」
でもダメなのだ。
もし自分が不可抗力で車に轢かれたりだとか、癌になってしまったりだとか、「どう頑張っても元気でいられない」状態に陥ったらどうするのだ。
そんな時でも、どんな時でも、有効に働くテーゼがいい。

で、このところずっと考えて、ひとつの答えが出た。
ふふふ。

いずれにせよ、この記事を頼まれたのは、自分に挑戦するきっかけにもなったから、幸福なことだったな。
全然お金にはならなかったんですけどね。

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