ものを書くときに、パソコンなり紙なりに向かったとき、
初めて書くことが生まれる、というようなことを昨日書きました。
「ものが書ける」とはどういう状態なのか、について考えます。
なので、まず「ものが『書けない』」という状態について考えてみます。
「書けなくて困る」ということがよくあります。
そのとき僕に起こっている事とは何か。
それは「行為としての書くこと」ができないのではなく、
「書き出せない」
ということであるような気がします。
「書き出せない」のはなぜか。
それは、「面白いことを書こう」という思惑があるからです。
まず面白いことを(あるいは面白いであろうことを)思いついてから、
それをトレースするように、文字に起こしていこう、
端的に言って、そういう考えがあるからです。
でも実際には、少なくとも行為としての「書く」
を実行することに、物理的な障壁はほとんどありません。
「よし、書こう」と思ったら、
思惑が邪魔をするより先に書き始めてしまえば
いとも簡単に書き出すことができます。
そこに何か問題があるか。
あるとすれば、書いた結果が全然面白くない、とか
全く論理を欠いている、とか読みづらい、とか
そういうことが起こる可能性はあるかもしれません。
実際には、よく考えて書いたことが必ずしも面白い訳ではないし、
「考える前」に、前のめりで書いた文章が
毎回支離滅裂のつまらない文になる訳でもありません。
だから、「書く」のは、それほど深く考えずに
いきなり始めてしまう方がいいのかもしれない。
会話のことを考えてみればこれはよくわかります。
人と会話をするとき、推敲はできません。
あらかじめ紙に書いた内容だってありませんから、
常に即興で話すしかない訳です。
思念が形を取るまでのスパンが短い、とも言えます。
会話は、より「反射」的である、と言えます。
なぜなら、そこに考える余地がないというか、
むしろ「考えるよりも先に」脳が筋肉を動かし、
声帯を震わせ、それが音波となって出てくる、
そのプロセスを、全て自分ではコントロールできないような気がするからです。
(またしても、自意識なんてない、という問題になってくる)
「書ける」ということは、どう言う状態なのか、
外国語を話す、ということに照らし合わせて考えると、
また少しはっきりするような気もします。
ちょうど今僕はフランス語の学習アプリで、
スキットを聴きながらこれを書いているので、
それで考えてみます。
僕はフランス語が話せません。
それは、今までに蓄積してきた言語体系の量が少なすぎるからです。
日本語で僕が話をするとき、
つまり考えに先立って何かを言う時、
それは今まで聞いたことのある言い方を、
その場で有効に組み合わせて発している、としか思えません。
創造性とは記憶のことだ、とは言いますが、
それに近い。
「今、この場」で何かを発信すること全ては、
今まで自分が受容してきたものの記憶のデータベースから
断片を組み合わせて外に出しているはずです。
フランス語では、
僕の中で、まだ有効に組み合わせられるほどのかさの
言葉の蓄積がないので、そもそもそれを話すことが「不可能」です。
「ものが書けない」と言うときの「書けない」とは実行不能性の意味が違います。
つまり、「まだフランス語で意味がある、面白いことが言えない」のではなく、
まだ実のなっていないみかんの樹からは、
いいみかんも悪いみかんも採ることができないように、
そもそも実が全然なっていないから、何も取り出せない訳です。
それをふまえて、「ジャグリングができる」とはどういうことか考えてみます。
と言うより、よりスペシフィックに「やることを思いつかない」と言う状態を考えたいです。
(まぁ、なぜなら、しょっちゅう起こるからなんですが)
と思ったんですが、なんだかどうも、この先がわかりません。
前のめりで書くと、こういうことが起こるんですね。