いつもこれを書いているのが夜の1時過ぎで、なんとかしないといけない。今はファイトナイトを見た後。
眠い。
なんとか、Youtubeの、”Rainy Jazz”と言うお気に入りのラジオ局を聴きながら、外のバルコニーで書いている。ここが今回の僕のEJCのお気に入りの場所である。
※ ※ ※
4日目、生活のリズムがつかめてくる。
昨日のステージに出たおかげで、自分のことを認識してくれる人がいる。
この日はイベントが少なかったので、割に書くことがない。
ただ、オープンステージに、日本人の鈴木さんが出た。
やはり同郷の人が出ると、未だに嬉しいものですね。
EJCに日本人が来る、ということの意味を考える。
主催のフレッドにインタビューをした時、
「日本からも人がきてくれるのは、アゾレスのコミュニティにとっても、島が魅力的だと言うことを示唆しているからとても誇りなんだ」
と言っていた。
そう、そして、言葉についても考える。
ミツオさん、という、半分フランス人で半分日本人のジャグラーに出会った。
彼は日本語をすごく上手に話す。
だがやはり彼と話す時、少しだけ、わかりやすい日本語で話そう、という意識が生まれる。
自然、話すことについても、「日本で暮らしている人」に特有ではなかろうか、と感じられる文脈については無意識に避けて通るように話したりする。
そういう風に話している時の自分を客観的に見ながら、英語を話している時の自分のことを考える。
僕は、白状すると、今だに、英語を母語とする人との会話に慣れない。
英語がそれほど上手くないから、というのが主な理由なんだけど、それにしても、相手が気を使っているかもしれない、と思ってしまい始めた時に、上手く歯車が回らない時がある。
ただ、シンガポールの人なんかだと、その感覚は薄い。
同じような、アジア人の見た目をしているだけで、精神性も似ていることをおのずから前提にするようなところがある。
これはなぜか。
英語を話す時には、僕は「英語を話す人の態度」を自分に憑依させて、日本語の人格と切り離された人格で話している。
イタリア語を話す時は、また少し違った感覚で話している。
言葉には、その言葉の”言語外現実”と密着に結びついた「話されかた」があるからだ。
たとえばその、居酒屋で焼き鳥を食べて、美味しかったよ、というようなことを言うだけでも、そこには日本語という形で、その思念を表に出すプロセスの中に、「それを話すのが日本語であるべき理由」が宿るような感覚がある。
外国に暮らすと、その国の言語を身につけやすいのは、言葉に囲まれる、ということもそうなんだけど、何より、その言葉と密着した「現実」を実際に経験できるから、だろうと思う。
同じように、EJCの中にいる人たちでも、なんとなく、そこに特有の「言葉の話されかた」「トピックの選び方」なんかがあったりする。あとは、「態度」とか。
そのことを、いつも僕は考えてしまう。
EJCという文脈で話される言葉、そして、共有されている認識、みたいなものに、自分をチューニングさせている。
だから、日本語を話しながら、同時に片方では英語を話す、というのはとても難しい。
言語が違うと、そしてそもそも受け答える内容だって、やや違ってくるから、ということもある。
ほぼ床についてますよ、お兄さん
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