「効率的である」って、いつでも「よいこと」なんだろうか。
僕は今日ドイツ語の「意味が半分くらいしかわからない」本を、その快感だけに意識を集中して読んでいた。
僕はドイツ語を聴くにせよ読むにせよ、意味がわからなくてもすごく幸せを感じる。そのことだけを意識して、電車に乗る時間を過ごした。
人生全体の「効率」で考えると、これは無駄極まりない。だってこれでドイツ語が身につくとは考えづらいし、しかもこの先ドイツ語を使って何か目に見える利益を享受しようという予定はないので、つまりこれは自分への投資としては全然有効でない(可能性の方が高い)からだ。
しかし、自分で「満ち足りている」と知っている時間を、効率をものさしにして「これはよくない」と反省して切り捨ててしまうことって、果たしていいことなのだろうか。
言い換えると、「予想に基づいて将来に向けたなるべく賢い選択をする」って本当にいいことなのかな。こういう考えは、昨今流行っているような気がして。「効率の追求」とか、「よりよい暮らしを目指す」とか。「今ここ」じゃなくて、「今より先の、改善されたもの」に軸足を寄せている考え方。
そもそも、予想、ってそんなに信頼できるものだろうか。特に「言葉で作った予想」って。「こうで『ありたい』」ということって。
たとえばさ、「今、散歩に行くべきではない。なぜなら、一刻も早くこの記事を書き上げないといけないから」という予想がある。そりゃあさ、そうだよ。だって、普通に、ロジックで考えたら、
①「散歩に行くと数分間を失う」
②「その数分間を記事を書く時間に充てたら記事はその分早く書き上がる」
これは「当たり前」だからね。でもさ、言葉って、すごく単純なファクター同士しかつなぐことができないじゃない。現実って、とてもじゃないが、有限の、言葉でできたファクターの組み合わせでは到底「予想」できるようなシロモノじゃないんじゃないか、と、やっぱりふと思うんだよ。たとえそれが「散歩と執筆の関係」みたいなありふれたどんな単純なことでも。
もちろん、その単純なファクターのくみあわせの技巧で、いろんなものを立体的に浮かび上がらせるのが文章や語りの「方法」なのは知ってるよ。でもやっぱり、現実ってもっともっと、理性が把握しきれないような膨大な要素で出来上がっているということを忘れちゃいけないとおもうんだよ。
現実は「数多くのソリッドな要素」じゃなくて、「とても大きな液体のような何か」でできあがってるものじゃないか、と思うんだよ。manyじゃなくて、muchの。個数じゃなくて、量、みたいな。
たとえばさっきの「今、散歩に行くべきではない。なぜなら、一刻も早くこの記事を書き上げないといけないから」だけど、散歩に行ったら、よりいいアイデアが浮かんで、しかもそれを簡潔に、短時間で書き上げるよい言い回しが浮かんで、結果早く終わる可能性「だってある」ということが含まれてない。で、そのことをことばで把握しようと思うと、それを(口に出すにせよ頭の中でにせよ)線的に時間をかけて言わなくちゃいけない。
そこにくると、直感とか体感、ってのは、その「そうじゃない可能性」も含めた両面を無時間的に感じ取っているような気がしないか?
『なぜか』無性に散歩に出たくなって、散歩をする、というその時の欲のこと。結果、よいものが出来上がる時がある、ということ。よい生き方になる時がある、ということ。
それは理路整然と、ファクターの組み合わせで線的に「知る」のと違って、液体であるこの現実を、液体のまま、どちゃっと身体が感じている、ということだと思うからなんだよ。直感や欲というものが、Aとnot Aを、どちらも同時に引き受けることが可能な認知体系だということだ、と思うんだよ。
予測をつけすぎて、なんだか窮屈になっちゃう時があるよな。「こんなことしても無駄だからやめよう」とか。
でもね、「言葉でできた予想」を信じるのは、そんなにいつでも有効なことでもないよな、と、なんかさ、思うんだよ。