2018年10月31日水曜日

第244回 インターネットがいいことを教えてくれた日でした。


今日は昼から、しばらくジャグリングに関わることを考えていました。
インターネットも使って、考えていました。
会社や、個人が、どういう考えのもとで、つまりどういう「おおもとの理念」で、次の行動を決定しているのか、ということが知りたくて、いくつかの会社や個人の書くことをよく読んで、勉強していました。

インターネットは、下手に扱うと、いやな気持ちになることも往往にして多い場所だけれど、自分がきちんと意思を持って、何かを学ぼうと思って節度を持って接すると、いいことを教えてくれるんだな、と感謝したくなる。

2018年10月30日火曜日

第243回 これを観て僕は、ちょっと、打ちのめされてしまう。



これを観て僕は、ちょっと、打ちのめされてしまう。
ジャグリングの世界にばっかり縛られていた自分のことを、思ってしまう。
「自分の手で何かをつくる」ということが、ジャグリングの世界ではおろそかにされてきたんじゃないか、とか僕は声高に言うけれど、俯瞰して「世界」に目を配れば、それは当然のように、星の数ほどの人たちによって、脈々と続けられてきたことなんだ、と気づかされる。
そして、「向こう側」からジャグリングにアプローチされたら、あっという間に、「ジャグラー」としての自分が考えることなんか、圧倒されてしまうのだ。


同じように、これを観ても、「ああ、自分はなんて縛られていたんだろう」と思う。

縛られている、ということに自覚的ではあるつもりだったが、(それで、ちょっと調子に乗っちゃったりしているのだ)「どれぐらい自分が縛られているか」ということの認識が至極甘々だったんだ、と思うのだ。



昨日発表された、カンパニー「頭と口」の渡邉尚さんによる、新作動画、「NAOKO」。

公式Twitter @ATAMA_TO_KUCHI より引用

「NAOKO」 自分の身体は何%女性なんだろう? 最近仕事で女装をする機会がありまして、それから考えている。 周りを観ても100%人間とか100%男とか100%女の人は存在せず、みんな少しずつ混じっている。
「ジャグリングがどこまでカバーできるか」ということを考えぬいた時に、一見ジャグリングとは関係なさそうなものが立ち現れてくるのが、僕としては、面白いことだよな、と思う。
というよりも、「関係ないと思っていたこと」が、「ジャグリングを究めている人によって、表現の一部に組み込まれる」ということに、僕は鳥肌が立ってしまう。

「やれやれ」と天井に顔を向けて、全部投げ出したくなる気分だけれども、ここからが正念場だ、と思わねばなるまい。
誰だって、生まれた時は何も知らないのだし、前に進む、という意欲は、自分がどれだけ後ろにいるかを知っているから、生まれるのだ。

ひとまず今日は、とぼとぼ、浅草まで、Fuji君と一緒に、革を探しに行く。

2018年10月29日月曜日

第242回 自分の経験してきたことがそのまま財産になる、というのは

今日も毎月恒例のジャグリング教室。
ふだんお世話になっているコワーキングスペースのみなさん対象に、やった。
2時間だけだけど。
ボールジャグリングの基本から、ディアボロまで、なんでもやる。
最後は、サイモンセッズなんかしちゃったりして。

前に地区センターで、アドリブで「ジャグリングとは何か」という演技をした時も思った。
自分の経験してきたことがそのまま財産になる、というのは、こういう時だな、と思う。
本当に嬉しいものです。

最近、PM Jugglingという、小さなジャグリングメーカーと一緒に仕事をしている。
翻訳や、展開の仕方をともに考えている。
これなんかは、
「ジャグラーの知り合いが多い」
「英語を好きでいろいろ使って来た」
というような自分にとっての個人的な経験が、他の役に立つように流用される、ということである。

で、ここで大事なのは、どんなことが「自分だけの財産」なのか、自分では結構気づきづらいということだと思う。
海外にジャグラーの知り合いが多い、ということもその最たるもので、自分の中では、それが誰かの役に立つだなんて考えづらいものである。
でも、ある時ふと、他の人と話していて、「そうか、これは、自分が経験の中で育んで来た、貴重な財産なんだ」と気づく時がある。

「好きなこと」ほど、自分が現在やっている「仕事」とかけはなれていることって多くて、そういうことが「仕事」になるとはあんまり想像できない。
でもささいな自分の中の楽しみだと思ってやっていたようなことが、案外、はたからみると、「それだよ、それ」と、需要があるものだったりする。
ジャグリングだって、そういうところがある。
別に何かの役に立てようだなんて思いながらは、練習していない。
でも、ジャグリングって面白そうだな、と思っている人にとっては、ジャグリングができる、ということは、すでに財産なのだ。

自分の経験していることを、そのまま財産に転換するのは、「だから」大変だ。
まず足元を見ないといけないからだ。
気づかないといけないからだ。
そしてその自分が今まで「自分のために」育んで来たことの、工夫して線路を切り替えることが必要だ。
でも、一回線路を切り替えてみると、思った以上に乗客が乗るんだなぁ、とびっくりしたりする。

まぁでも多くの場合、「運良く」それが生かされるんだろうな、と思ったりする。

2018年10月28日日曜日

第241回 ベトナムのサーカス Lune Production 『The Mist』

今日は、ベトナムから来たサーカス、Lune Production の、『The Mist』を観に行きました。

始まる前の会場は、まるでシルク・ドゥ・ソレイユや、ディズニーランドのアトラクションのような雰囲気。(きっと影響を受けていると思う)
舞台装置、衣装は、ベトナムの農民生活をモチーフにしたもの。
そして稲穂がたくさん出てくる。
そう、90分間の一貫したテーマが、「コメ」なのだ。
ダンスとアクロバット、そして生演奏の音楽。
時折ちょっとした芝居が入る。

とくに後半は、畳み掛けるようにガシガシと踊る。
観客と一体になって、バシンバシンとシンプルなパーカッションのリズムを奏でる。
入り口で、くつべら二本をくっつけたようなバチを配られているので、それを一緒になって叩く。

別に何を言われるでもなく、観客は自然と演者に乗せられて、それをペケペケ叩きます。
なんだかおかしくて、一人でバチを叩きながら笑ってしまった。

バチを持たされただけで、何も言われなくてもぺちぺち鳴らしちゃう、というのは、とっても愉快じゃーないですか?
子供も大人も一緒で、しかもそのパートが終わった後、当然のような顔して、そのバチでチャッチャッチャッチャ、と拍手をするのだ。

その場の暗黙のルールを、誰にも言われず、その場にいる全員が共有した時、というのはとても気持ちがいいよな。
それが、別に強制されたものではなく、なんとなく、自然にやってしまう、というのが、一番いい。

終演後も演者達が外で「へ〜〜い」とか言いながら、わいわい楽しそうにしていて、とてもいい気分だった。

※ ※ ※

自国の「伝統」を演技に盛り込む、ということは、白々しくなっちゃったり、嘘っぽく見えるリスクをともなう。
この公演に関しては、僕は、踊っている時でも、演技をしている時でもなく、彼らがベトナム語で会話をしている時に、一番、「異国」、つまり彼らにとっての「自国」を感じた。
「自分に関係のある文化」って、一番は「ことば」なのかもしれない、と思った。

日本なら、着物でも、神社でも、ゲイシャでも、フジヤマでも、和食でもなく。
ことば、っていうのが。
「ことば」こそが、(それは、でもある人にとっては日本語ではないかもしれないし、それにしても、自分が喋る言語、ということが)自分が自然に背負って来た、そして実際的な経験とともに関わって来た大きな文化じゃないか、と思った。

実を言うと、観ながら、一番心を動かされたのは、アクロバットでも照明演出でも衣装でもなく、ベトナム語の響きだったのだ。
演技中、特に後半、演者たちはわりに自然体でベトナム語を喋りまくる。
その時のベトナム語の響きがたまらなくよくて、感動してしまった。
ああ、ベトナム語習いたいなあ、と思った。

そしてこのことは、今日読み終わった、『台湾生まれ 日本語育ち』というこのとても面白い本とも、実はかなり関係がある。

少し紛らわしい看板。AO SHOW は、今回KAATではやらない。
別の小田原や横須賀、大和の劇場でやる。


2018年10月27日土曜日

第240回 つかれて何もしたくないときと書きたくても何も書けなそうなとき

つかれて何もしたくない、という気分があるよね。
そういうときに、それでも何かをする、しなければならないから。
そういうことがある。

電車で目的の駅に着いたとき、どんなに眠くても、人はおきてふらふらと出て行き、家まで向かう。

何か書かないといけないのだけど、何も書けない、ということも、ある。(しょっちゅうある)このことは折に触れて書いてきた。

そういうときにいつも感じるのは、書き始めると書ける、ということである。

やり始める前は、まさか達成されるとも思っていなかったようなことを達成する、というのは、人生において常に起きることであるように思う。
「予定」というのは、あくまで「スタートラインから走る」ことのために、便宜的に設定しておく方がいいもの、というだけであって、実際には、「予定通りに行くこと」はあまり本質的ではないのかもしれない、と思う。

予定をたてなきゃいけない、と思い込めば思うほど、全然始められない、ということって、多いような気がする。

2018年10月26日金曜日

第239回 一度「野良英語」から派生する世界に触れると (「ジャグラーと話すための外国語」シリーズ)

特にいま中学生、高校生の方に言いたいことがある。
授業でやる座学の「英語」と、かたや実際に使うときの”English”って、「真面目な体育の授業」と「友達とやるドロケイ」ぐらい違う感じがします。 次に何が来るか分からない楽しさ、ルールは簡単にして、かつあくまで自分たちのできる範囲で遊ぶ感じ。正確にできてるか、とかはあまり気にしない感じ。


もちろんうまいに越したことないんですが、「やりながら上手くなる」のが普通だから、「仲間に入れてほしいな」と思って、最初は敷居が高いかもしれないけど、中に入っちゃえば、あとは割に足りないことは自然と補われていきます。
もちろん、授業で少なくとも平等に触れる機会があるというのは素敵なことです。
先生だってきっとすごく必至で教えておられると思います。 授業は「ムダだ」なんて言いません。 しかし「野良英語」を知らずにいるのは、なんか、もったいないよな、とおもいます。
「EJCに行きたくて英語を頑張ってるんです」という人を見ると、すごく嬉しい。(昨日そういう高校生の方が話しかけてくれました)
自分で英語を使うための目標を見つけて一生懸命やるのはとても楽しいし、一度ループに入ってしまえば、すごく上達します。「TOEIC対策」なんかする必要なくなります。
受験とか就職とか、いろんな理由で「正確な英語を」厳しく身につけなきゃいけない、必死で試験対策をしている、という人もいるでしょう。
そういう方に、「さあ今すぐコミュニケーションしよう」みたいに言うつもりはないです。 僕だって中、高の頃は、英語を実際に使ったりはほとんどしなかったし。

しかし一度「野良英語」から派生する世界に触れると、「ああ、こういう世界があるんだったら、もっとちゃんと勉強したな」と、今になって思う。
だから今英語が退屈で、苦痛でしょうがない、という人は特に、英語にも「ドロケイ」みたいな適当で楽しい世界もあるんだ、と片隅で覚えておいてほしい。

第238回 日本人が英語について語ることを、逆の立場で考えてみる(「ジャグラーと話すための外国語」シリーズ)

日本について、他の国ではどう語られているか? というのは最近気になることである。
 英語でそれを収集するのはまず最初にできることだとは思うんだけど、僕としては、他の外国語で、その国の母国語で、友達同士の会話レベルで、どう語られているのか、そういうことが知りたい。 
僕が日本語で普段語るようなことは、僕が外国語で語ることとは全然違う、という実感から言っている。
 だったら、みんなも、結構「本音」や「自然な感想」とは違うこと言ってるんじゃないの、と思うのだ。 
そう思って自分の書いてることなんかを見ても、「英語がどうこう」みたいなことを、英語母語話者が見たら、きっとなんだか違和感を感じることってたくさんあるのだろうな、と思う。 
他国で日本語を勉強している人がいるとする。
「日本語試験900点越えの塾!」みたいな所で勉強しているとする。
 興味があるのはすごく嬉しい反面、もし彼らが点数だけ見てて、実際日本語では何を話されるか、とか文化のことを全く度外視していたら、僕だったら、なんか、悲しくなっちゃうだろうな。 
ただ英語の場合は、リンガ・フランカ(当座、実際的な理由で選ばれて使われる共通語)としての役割があるから、実用で、あくまで意思疎通のために学ぶのだ、という立場はあるだろう。 
でも、やっぱり、逆の立場だったら、なんか悲しくなるな、という個人的な想いは否定できない。
 学習の順序としても、「面白くて、知りたいことがあるから、その言葉に慣れ親しんでいく」という順序の方が、自然で無理がないだろうなとおもう。