10年前に、ジャグリングがまだまだ全然できなかった頃、新しい「トリック」を習得したり、新しい「トリック」を考えたりすることにとても興味があった。
最近はそうでもない。
技術を十何年経っても常に追い求め続ける人を見て、すごいなぁ、と本気で感心している。
同時に、なにか最近、「新しいトリック」というものにいよいよ今ひとつ熱くなれない自分がいる。
「トリック」の中の細かい違いよりも、どういう人がやっているのか、という部分が気になってしまう。
うまくなる、と一口に言っても、やっぱり「うまい」という基準そのものが、なかなか単純ではないなあ、とも思う。
「観ていて気持ちいいもの」は、演じる方の気持ちの持ちようとか、見る人と演じる人の関係などで変わってくる。
Bboy Cloud という人を横ハピのケント君に教えてもらった。
この人は、あくまでインスタグラムから受ける印象なんだけど、ヒーローになろうとしている、というより、ただ周りの人を喜ばせる、笑わせる、そういう気持ちが強い人なんじゃないかと思った。
それで大勢の人から支持を得ている。
そのことを、僕はすごく魅力的だなぁ、思った。
もちろんごりごりパワームーブを爽快に決めてくるBboyも見ていて気持ちいい。でも実際のところどんな人なのかは知らないけど、Cloudみたいな印象を与える人というのは、とても優しくていいな、と思う。
ダンスをやっていない時の自分とダンスをやっている時の自分が、すごく上手く混じり合っている、みたいで。
ディアボロのエティエンもそういうところがある。
まぁなんか、テキトーに行こうぜ、みたいな空気を持っていて、憧れる。
場所に応じて、求められるものというか、こんな部分を見せようかな、と臨機応変に自分が見せる部分を変えられる人は、とても素敵だよな。
2018年6月30日土曜日
2018年6月29日金曜日
第121回 どれぐらい模倣にうんざりしているか、の話
「目が肥えている」という言い方があるよね。
これはポジティブに聞こえる。
たくさんいいものを見てきた人が、何が良いか、何が悪いのか、自分の中で基準を持っている、というような意味。
ある日、立ち仕事をしていたら、ふと、あ、それって、「模倣にどれだけうんざりしているか」、ということの指標でもあるな、と思った。
「同じようなものをたくさん見てきた」ということだ。
例えばここに、典型的な大道芸をやる人がいたとする。
その人の芸は、割に他の大道芸人もやるような「お決まり」のネタをやったとする。
それを「ああ、この人もか」と思ってしまうと、楽しめなくなる。
「きっと〇〇さんの真似をしているに違いない」とか、思うかもしれない。
一方でそれを初めて観るような人は、とても感動して帰って行くだろう。
ディアボロという道具を高く高く放り投げる。
思っても見なかったような高さまで上がって、あわやというところで、それを華麗にキャッチする。
観た人は、「今日はこんなすごい人を見たよ」と、友人家族に嬉しそうに話したりするだろう。
その偽りのない感動の中に、悪い部分って、果たしてあるのだろうか、と思う。
よくあるものと、珍しいものを判断できることって、必ずしもいいことなのか、とさえ思う。
一緒に大道芸を見るなら、間違いなく、「まだ何も見たことない人」と一緒に行った方が楽しいだろう。
「どれぐらい模倣にうんざりしているか」という風に「鑑識眼」を捉えると、また違った見方が現れる。
この間書いたような、「いいものばかりシェアされてくる」話とも繋がりがある。
いいものだけではないけど、悪いものも、とにかく何かをたくさん見ることには、「うんざりする」という副作用がついてくる。
それが悪いと言いたいわけではない。
あくまで、ただそういう言い方にも十分権利があるな、と思っただけ。
「目が肥える」というときに、「初めて」の純粋な驚きを、やたらに切り崩して行ってしまっているみたいな、そういう感じがする時がある。
2018年6月28日木曜日
第120回 改めてボールジャグリング入門を読んで
最近、『ボールジャグリング入門』を読む機会がありました。
ジャグリングを教えるようになって、その時参加者の方が持ってきていました。
改めて読み返してみると、基本的なことが網羅されていて非常によくできた本ですね。
そして、この本片手に、必死になって技を覚えていたことを思い出しました。
その当時は、本当にジャグリングの「技」という概念がとてもわくわくするものだったことも思い出しました。
5ボールが、「ジャグラーの試金石だ」という記述も、今の平均的なジャグリングの技術レベルからすれば少し時代を感じるようなものにも思えますが、やっぱりあの頃は「きっと5個もボールが投げられたら、さぞ気分がいいだろうなぁ」と思っていました。
実際初めて投げることができたときのことも、12年前ですが、やっぱり覚えています。
それはそれは気の遠くなるようなことだったことも、やっぱりそこはかとなく覚えている。
ジャグリングを教えるようになって、その時参加者の方が持ってきていました。
改めて読み返してみると、基本的なことが網羅されていて非常によくできた本ですね。
そして、この本片手に、必死になって技を覚えていたことを思い出しました。
その当時は、本当にジャグリングの「技」という概念がとてもわくわくするものだったことも思い出しました。
5ボールが、「ジャグラーの試金石だ」という記述も、今の平均的なジャグリングの技術レベルからすれば少し時代を感じるようなものにも思えますが、やっぱりあの頃は「きっと5個もボールが投げられたら、さぞ気分がいいだろうなぁ」と思っていました。
実際初めて投げることができたときのことも、12年前ですが、やっぱり覚えています。
それはそれは気の遠くなるようなことだったことも、やっぱりそこはかとなく覚えている。
2018年6月27日水曜日
第119回 ある程度まとまった時間で
今日は昼から4時間ずっと、演技について考えたり、ボールのチュートリアルビデオを作ったりしていました。
ようやく形になってきた。
そして仕事へ。
ある程度まとまった時間でやらないと進まない物事っていうのは確かにあるなぁ、と思う。
ようやく形になってきた。
そして仕事へ。
ある程度まとまった時間でやらないと進まない物事っていうのは確かにあるなぁ、と思う。
2018年6月26日火曜日
第118回 ツマラナイことの連続
カテリーナ・カンプラーニさんという、人のよさそうなギリシャ女性のデザイナーがいる。
作品のいくつかを、映像で見た。
太すぎるナイフや、二つが取っ手で鎖のように繋がれてしまったマグカップ。
柄の部分と先の部分がチェーンで繋がれているフォークなど、「使いづらい」形状を考えて、デザインする"The Uncomfortable"プロジェクトを展開している。
彼女はこれを「私の作る道具を見るとみなさん、怒るんですが、役に立たないこれらの道具は、教育的な役割を果たしているんです」という。
なるほどね。
こういうことをジャグリング道具でも実験したいな、と思った。
だからとりあえず忘れないために、という意味も込めて、動画をシェアした。
ジャグリングでこれができたら相当面白いだろうな、と思った。
いろんな人から評価されたりするだろうな、と夢想した。
「面白そうなこと」って、思いつこうと思えばバンバン思いつける。
けど、バンバン実現できるかと言ったら、そうでもない。
話変わって、先日まさやんに口頭インタビューをした。
まさやんは、皿回しで今度IJAコンペティションに出る。
どういう風に今のスタイルになったのかを聞くと、
「『皿回し』で、他の人ができないことをやってやろう、と思った」
と言っていた。
実際、まさやんはいま、4枚をスティックの上で投げたりしている。
皿回しジャグリングの境地を開拓し続ける、トップの存在だ。
思いついたことを言葉で言ったり、絵に描いてみるのは簡単だ。
なんだか夢が広がって、わくわくする。
だが現実にそれを形にする過程は、ツマラナイことの連続だ。
練習をするにしたって、まず練習場所を確保する。
どうやったらできるのか、考える。
「全然できない」という状態が何日も、何ヶ月も、続く。
その間も、「それでも俺はこれをやりたいんだ」と自分に思わせないといけない。
一つの思いつきを実践するのに、何年もかかることだって珍しくない。
まさやんが今にたどり着くために、どれだけ黙々と、地道に練習を重ねてきたか知っているから、余計にそう思う。
作品のいくつかを、映像で見た。
太すぎるナイフや、二つが取っ手で鎖のように繋がれてしまったマグカップ。
柄の部分と先の部分がチェーンで繋がれているフォークなど、「使いづらい」形状を考えて、デザインする"The Uncomfortable"プロジェクトを展開している。
彼女はこれを「私の作る道具を見るとみなさん、怒るんですが、役に立たないこれらの道具は、教育的な役割を果たしているんです」という。
なるほどね。
こういうことをジャグリング道具でも実験したいな、と思った。
だからとりあえず忘れないために、という意味も込めて、動画をシェアした。
ジャグリングでこれができたら相当面白いだろうな、と思った。
いろんな人から評価されたりするだろうな、と夢想した。
「面白そうなこと」って、思いつこうと思えばバンバン思いつける。
けど、バンバン実現できるかと言ったら、そうでもない。
話変わって、先日まさやんに口頭インタビューをした。
まさやんは、皿回しで今度IJAコンペティションに出る。
どういう風に今のスタイルになったのかを聞くと、
「『皿回し』で、他の人ができないことをやってやろう、と思った」
と言っていた。
実際、まさやんはいま、4枚をスティックの上で投げたりしている。
皿回しジャグリングの境地を開拓し続ける、トップの存在だ。
思いついたことを言葉で言ったり、絵に描いてみるのは簡単だ。
なんだか夢が広がって、わくわくする。
だが現実にそれを形にする過程は、ツマラナイことの連続だ。
練習をするにしたって、まず練習場所を確保する。
どうやったらできるのか、考える。
「全然できない」という状態が何日も、何ヶ月も、続く。
その間も、「それでも俺はこれをやりたいんだ」と自分に思わせないといけない。
一つの思いつきを実践するのに、何年もかかることだって珍しくない。
まさやんが今にたどり着くために、どれだけ黙々と、地道に練習を重ねてきたか知っているから、余計にそう思う。
2018年6月25日月曜日
第117回 ジャグリングを人に教えること
人にジャグリングを教えることについて書いてみようと思う。
なぜなら最近人にジャグリングを教えているからだ。
コワーキングスペースに行って仕事をすることがあるのだけど、そこのかたがたが、ジャグリングに興味を持ってくれている。それで、ジャグリングを一から教える。
ジャグリングを教えたことは何度もある。
シンガポールで教えたこともある。
まず何よりも興味を持ってくれるのが嬉しい。
熱中している姿を見ると幸せな気分になる。
初歩なら教えられる、という自分自身に自信が持ててくる。
だいたいどんなことを聞かれても、「それは、こうすればよくなるかもしれないですね」とか、「こういうのもこの先にあります」とか、経験から、さっと言える。
自分の経験でものを語って、それが感心して受け入れられる、というのは、やはり気持ちがいい。
聞く方だって、付け焼き刃ではない話を聞けば、「この人はきっと色々と知っているんだ」と、何かを感じるだろう。
だが、僕は何か教えられることがあったとしても、普段あまり積極的に人には教えようとしない。聞かれれば嬉々としてなんでも答える(答えようとする)のだけど。
恥ずかしさがあるからかもしれない。
自分から進んで教えに行ったら、なんだ、偉そうにしちゃって、みたいに、俯瞰して自分を見てしまうからかもしれない。
そもそも自分自身が、昔から、あまり人から何かを教わりたがらない、人のところへ行って教えを請うのが苦手な人間だった気がする。
自分で独力で考えて、習得したいなぁ、と思ってしまうことの方が多い。
どうも「教えてください」と言いに行くのが下手である。
それで、人のところに自分でひょこひょこ行って余計な口出ししちゃあ、悪く思われるかな、とか、心配になってしまうのだ。
けども最近、人に教えるのって、面白いな、愉快だな、と思っている。
そうやって教えに行って、自分は、もっと人からいろんなことを教わろう、と前向きな気持ちになればいいのかもしれない。
なぜなら最近人にジャグリングを教えているからだ。
コワーキングスペースに行って仕事をすることがあるのだけど、そこのかたがたが、ジャグリングに興味を持ってくれている。それで、ジャグリングを一から教える。
ジャグリングを教えたことは何度もある。
シンガポールで教えたこともある。
まず何よりも興味を持ってくれるのが嬉しい。
熱中している姿を見ると幸せな気分になる。
初歩なら教えられる、という自分自身に自信が持ててくる。
だいたいどんなことを聞かれても、「それは、こうすればよくなるかもしれないですね」とか、「こういうのもこの先にあります」とか、経験から、さっと言える。
自分の経験でものを語って、それが感心して受け入れられる、というのは、やはり気持ちがいい。
聞く方だって、付け焼き刃ではない話を聞けば、「この人はきっと色々と知っているんだ」と、何かを感じるだろう。
だが、僕は何か教えられることがあったとしても、普段あまり積極的に人には教えようとしない。聞かれれば嬉々としてなんでも答える(答えようとする)のだけど。
恥ずかしさがあるからかもしれない。
自分から進んで教えに行ったら、なんだ、偉そうにしちゃって、みたいに、俯瞰して自分を見てしまうからかもしれない。
そもそも自分自身が、昔から、あまり人から何かを教わりたがらない、人のところへ行って教えを請うのが苦手な人間だった気がする。
自分で独力で考えて、習得したいなぁ、と思ってしまうことの方が多い。
どうも「教えてください」と言いに行くのが下手である。
それで、人のところに自分でひょこひょこ行って余計な口出ししちゃあ、悪く思われるかな、とか、心配になってしまうのだ。
けども最近、人に教えるのって、面白いな、愉快だな、と思っている。
そうやって教えに行って、自分は、もっと人からいろんなことを教わろう、と前向きな気持ちになればいいのかもしれない。
2018年6月24日日曜日
第116回 なんか飽き飽きしちゃう時
フェイスブックとかツイッターとか、インスタグラムとか。
SNSに関わっていて、ジャグラー、ダンサーの知り合いが多いと、否が応でも「すごい人たちの動画」が回ってくる。
そういうのが回ってくると、やはり気になって、ちょこっと見てしまう。
ただそういう入力が多いと、時々うんざりしてしまう。
見てしまう自分が悪いんだけど。
僕はなんだか「すごい」ものをずっと見ていると、「すごい」ものを賞賛する態度が世に溢れている、ということを思って、「そればっかりじゃなぁ」という気分になってくる。
TEDの講演とかも、よく見るし、感心する。
でも3本、4本と立て続けに見て、ふと「優れた意見ばっかり見てしまった」とか思う。
「素晴らしいもの」が無料で、簡単に見られたり、聞けたり、読めてしまう、というその事実に、何かもどかしいものを感じる。一抹の罪悪感、と言い換えてもいいような気がする。湯水を無駄に使っているような気分に、あるいは近いのかもしれない。
栄養ドリンクばっかり飲んでいて、まともな食事をしていない気分、とかにも近いかもしれない。
汗水垂らして運動して、その後に飲む蛇口から出る一口の水がうまい、みたいな、そういう感覚もいいよな、と思う時がある。
やたらに、ではなく、緊張感を持って見たいよな、と思ったりする。
SNSに関わっていて、ジャグラー、ダンサーの知り合いが多いと、否が応でも「すごい人たちの動画」が回ってくる。
そういうのが回ってくると、やはり気になって、ちょこっと見てしまう。
ただそういう入力が多いと、時々うんざりしてしまう。
見てしまう自分が悪いんだけど。
僕はなんだか「すごい」ものをずっと見ていると、「すごい」ものを賞賛する態度が世に溢れている、ということを思って、「そればっかりじゃなぁ」という気分になってくる。
TEDの講演とかも、よく見るし、感心する。
でも3本、4本と立て続けに見て、ふと「優れた意見ばっかり見てしまった」とか思う。
「素晴らしいもの」が無料で、簡単に見られたり、聞けたり、読めてしまう、というその事実に、何かもどかしいものを感じる。一抹の罪悪感、と言い換えてもいいような気がする。湯水を無駄に使っているような気分に、あるいは近いのかもしれない。
栄養ドリンクばっかり飲んでいて、まともな食事をしていない気分、とかにも近いかもしれない。
汗水垂らして運動して、その後に飲む蛇口から出る一口の水がうまい、みたいな、そういう感覚もいいよな、と思う時がある。
やたらに、ではなく、緊張感を持って見たいよな、と思ったりする。
登録:
投稿 (Atom)