2018年10月7日日曜日

第220回 JJF1日目

東京は代々木のオリンピックセンターで、日本最大のジャグリングフェスティバルが開かれています。

昨日は3日間あるうちの、1日目。

10時半ごろ到着、PONTEのブースを設置しました。

久しぶりに会う人と話をしてから、JJS(ジャグリング・ジャム・セッション)というイベントに出る。
年々レベルが上がっているな、と感じる。
そして、なんだか、JJFの中でのジャグラーの「傾向」の多様性の一部のようで、僕はそういうのを見るのが非常に愉快です。

優勝した、コンタクトジャグラーたろりん

そして、チャンピオンシップ、という、順位のつく選手権もありました。





ヨーロッパのジャグリングコンベンションを経てから、台湾に言ってジャグリングバトルを見て、そして日本のコンペティション文化、独特のバトル文化を見て、自分の立ち位置について、考えてしまった。

昨日も書いたけど、そういう中で、切実なものがなんなのか、ということを、今日、ワークショップで話したりする中でも考えようと思っている。

第219回 僕は、それをジャグリングの中で、探そうとしている。

送れてしまいましたが10月6日の分です。

何が自分にとって切実か、ということがある。
僕は、それをジャグリングの中で、探そうとしている。

なんでジャグリングの中か、というと、主に、なんだか人生の因果で、ジャグリングとの付き合いが長いからである。

そんな話を、明日しようとおもっている。

2018年10月5日金曜日

第218回 チームとか

PONTEをチームでやる、という発想を再び復活させた。
と、こんなことをここで宣言しても、見ている人は10人くらいしかいないのも知っている。
ただ、まぁそんな状況でもあるし、今思っていることを正直に書いておこう。

JJFに出展したりだとか、今度淡路島に取材に行ったりだとか、なんやかやで、いろんな仕事がある。そういうことを一人でやる中で、雑誌そのもののスケジュールも自分一人で全部管理する、というのは、なかなか難しい。
それは労力がかかる、という意味の難しい、ではなくて、自分の意見をぶつける相手がいない、ということの難しさである。

自分が何かを考えた時、それをぶつける相手がいないと、全然、前進しないことが多いんです。
たとえその考えたことが素晴らしかったとしても、それをいったん誰かのために「見せられる」形にすることは大事だ。
そうでなければ、決してすすまないこと、というのがある。

自分の頭の中では、先の方まで見えているんだけど、それをいざ実現しよう、と思った時、そこにある「着実にやらないといけないこと」が、人に意見を述べる、という形で「線状」に開く時、明瞭になる。
ああ、まだ全然具体的に考えられていなかったんだ、と思う。

頭で考えていること、というのは、現実とはかなり違うのだ、ということも、人と話す中で、自然とわかってくる。

2018年10月4日木曜日

第217回 JJFがわくわくすること。

昔は、JJFに行く、というととんでもなくわくわくしたものでした。
今は、というと、昔ほどはわくわくしていないような気がします。
でも、こうやって書いているうちに、久しぶりに会う人たちのことを思い出して、そのことでわくわくしてきました。

初めてJJFに行った時は、高校の友達と二人で静岡まで行きました。
あの時のO君は、まだジャグリングを時々はやってるだろうか。

あの時は、とにかく見るもの全てが新しくて、インターネットでしか知らなかったような人にもたくさん会って、ぐるぐる、興奮しっぱなしだったような気がします。

パッシングを見るだけでも、とても愉快なきぶんになった記憶がある。

それがだんだんと時が経って、いや、こんな月並みなことを言ってもしょうがないのだけど、見方が変わってきたのだなぁ、と思う。

大人になった、とか言っちゃってもいいのかも知れない。
それよりも大きな物事をたくさん経験してきた、と思う。

しかしやっぱりこうやって書いていて、ますますわくわくしてきたよ。

やっぱり、知らないみんなも、知ってるみんなもたくさん集まるイベントってのは面白いよな。


2018年10月3日水曜日

第216回 さて27歳

今日で27歳になりました。
だからどうだ、というのでもなく、最近は誕生日というものを気にしなくなってきました。
自分のも、他人のも。

ただひとつ思うのは、歳をとることは嬉しいな、ということです。

歳をとるのは嬉しい。

ジェイ。
ジェイの話をしましょう。

ジェイ・ギリガンは、アメリカ生まれの、アヴァンギャルドを代表するうちのひとりのジャグラーです。



上の動画は、ジェイが30年間ジャグリングをやってきた、ということを記念して作った動画。この時点でジェイ自身は39歳です。

歳をとるとナメられなくなる、ということが僕は好きです。
一方で、「歳がいっているから」という理由で偉そうにしているひとがいるとしたら、それは好きではないです。

年月をかさねてきたことが、確かにその人の中に現れている。
そしてそれが外に自然ににじみ出ていて、その時、おのずからそのことを敬う、ということであるのが、一番いいな、と思います。

30年間ジャグリングを続けることというのは難しいか。
僕は、そんなに難しくないんじゃないか、と思う。
続けること自体は全然難しくない。
このブログだってそうだけど、一度ループに入ってしまえば、続ける、ということ自体はそれほど苦ではなくなってきます。

ただ、本人が、続けることに関してわくわくしている度合い、ということになると、それは、高いか低いか、いろいろなケースがある。
「なんとも思ってない」というのはよくあるケースかもしれないですね。

なんとも思ってない。

できれば、わくわくするような、「続ける」をやりたいよな、と思う。

でも、わくわくする、というのは、それを「おこなっている」最中に常に感じていることではなかったりする。
実際には、何年か続けて見て、振り返った時に「そうか、これだけのかさを積み重ねてきたんだ」という形で初めて嬉しく思う、ということも多い。

そして、頑張りすぎちゃうと続かなくなる、ということも真実だよな。

とりあえず、27歳になって、今僕はジャグリングを12年半やっていることになる。
そのことにわくわくしているか?

それは。

ふふふ。

2018年10月2日火曜日

第215回 ジャグリングと親切心について

文章を書く時に、最近は、なるべく親切に書こう、ということを心がけています。
それが読んでくれる人に対する、ひとつの誠意じゃないか、という気がするからです。

で、ジャグリングのことを考えても、そういう言い方が成り立つ時ってあるよな、と思う。

おもにジャグリングを見せる時ですが、一個一個、「何が起きているのか」ということをわかるようにジャグリングする、というのは、心がけてもいいじゃないか、と思う。

そのことを考えると、体はどういう向きがいいのか、軌道はどういう軌道がいいのか、衣装はどういう衣装がいいのか、そういうことを、どんな方針で考えたらいいのか、わかりやすくなるような気もする。

別に簡単なことをやる、というのではなくて、難しいことほど、どうわかりやすく伝えるか、ということだと思う。
見せる順序や、見せる前の話の持っていきかたなんかも、文章と同じように、腕の見せ所なんだろうな、という気がする。

2018年10月1日月曜日

第214回 「ジャグリングがあれば言葉はいらない」のか(ジャグリングがつなげるものシリーズ)

みなさん、台風、大丈夫でしたか。

※ ※ ※

ジャグリングが、いろんなことをつなげてきました。

昨日は千葉まで行って、パフォーマンスをしました。
ご馳走になったフランクフルトが美味しかった。
ジャグリングが僕とフランクフルトをつなげた。

さて、僕が「ジャグリングがつなげるもの」と言って一番強く感じるのは、ジャグリングを起点にした、海外とのつながりです。
文化の違うところに行くと、必然的に「よそもの」として入ることになりますが、その時、お互いがジャグリングをする、という共通項があると、氷をブレイクしやすい。
そういう意味で、ジャグリングはコミュニケーションの大きな助けとなります。

でも、だからといってそれで完結するわけではない、と僕は思います。

一方では、「ジャグリングがあれば言葉はいらない」とか、「ジャグリングがあれば通じ合える」とかいう言い方をされることがあります。
僕はそう言い切ってしまってはいけないと思います。

「言葉なんかいらない」と言い切ってしまうと(いや、そう言いたい気持ちはすごくよくわかるんですが)そこから先にある、「言葉が通じる」ということの何倍もの豊穣が、見えなくなってしまうからです。

実際には、「ことばが通じる」ということはとても、とても大事です。

ことばが通じなくても、仲良くすることはできるし、むしろ言葉なんか下手に通じない方が、仲良くできることが多いかもしれないです。
ことばがなくても、感動を届けることはできます。
でも、人と通じ合う、ということは、仲良くしたりポジティブに感動したりすることだけではないだろう、と思います。
僕はそう思って、ちょっとでも外国語を勉強しようとつとめている。

お互いに通じる言葉で、喧嘩をしたり、議論をする。
その度悔しい思いをしたり、分からないなぁ、という部分だってたくさんあるから、少なくとも、理解できるようにがんばろう、とおもうし、「才能がない」とかふにゃふにゃ言わずに、自力でなんとかしようとします。
ワークショップを受けていても、本人が伝えようとしているニュアンスをそのまま受け取れたら、どんなにか素敵だろう、といつも思う。
英語というとりあえずの媒介ではなく、本人の母国語を理解できたらもっと楽しいだろう、ともいつも思う。

至極当たり前ですが、「考え」のやりとりを通して学ぶことは、とても多いです。

現実的には、さすがにたとえば外国語をスムーズに理解できるようになり、発信もできるようになることは、すぐできることではないです。時間がかかります。
だいたい、本気で外国語学習が嫌いだったり、苦手な人だってたくさんいます。
だから別に外国語を勉強せよ、と言うつもりは全然無いのですが、でも、「ことばはいらない」と言い切ってしまわず、「ことばが通じるようになんとか払う努力」や、「ことばが通じることの豊かさ」に対して余地を残しておく方が、よりよい、ものの言い方じゃないかな、と思うことはあります。